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2019年04月19日18:10

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文芸大聴講[芸術と社会]第2回〜ローマその1 ベルニーニ

4/18(木)、静岡文化芸術大学の授業[芸術と社会]の第2回聴講。
全体の計画は前回に紹介した。
今回から各論に入り、その最初はローマである。
ローマについては授業3回をかける由。

講師 小針由紀隆

ローマは、古代を除けばバロック芸術の遺産が多い。中でもベルニーニが特筆される。
「バロックのローマ」という言い方を「ベルニーニのローマ」と言い換える事さえできるのではないか。
ローマの基礎ができたのは17世紀、ジャンロレンツォ・ベルニーニが教皇と一緒にローマという街を造っていった。

ローマは今でこそ286万人の都市だが、バロック時代、その少しあとの18世紀中頃のデータでは、15万人しかいなかった。
79万人の浜松市より大分小さい。磐田市が17〜18万人、藤枝市が14万人、その間くらいのイメージだ。

北方異民族の外敵から守るためにローマに城壁が作られ始めたのは3世紀、アウレリアヌス帝/在位270-275の時代から。(完成は次期皇帝のブロブス/在位276-282の時代。)
そのため〈アウレリアヌス城壁〉と呼ばれる。全周19km、高さ8m、厚さ3.5m。5世紀には高さを16mにする改修が行われた。現在もかなりの部分が残されている。

〈ポルタ城門〉
北側からローマに入るには、この門から入る。
門の内に〈ポポロ広場〉がある事から、〈ポポロ門〉とも言われる。
門の上部には☆1つの家紋が彫り込まれている。
この門はアレクサンデル7世の命令で造られた。アレクサンデル7世はキージ家出身で、☆1つはキージ家の紋章。
この門に税関が置かれ、出入に対し税を徴収した。

〈ポポロ広場〉
17世紀には細長い台形をしていたが、今は長い楕円形。中央には古代ローマの時代にエジプトから持ってこられたオベリスク。
ポポロ門から入ると正面(南側)に2つの良く似た教会がある。サンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会とサンタ・マリア・イン・モンデサント教会は〈双子教会〉と呼ばれる。
外部の人がローマに入って最初に見るのがこの教会だ。
教会から3本の道が放射状に走っている。その扇の要の位置に〈双子教会〉はある。

〈スペイン広場〉
そのうち左側の道を5〜6分行くと、〈スペイン広場〉がある。ゆったりした幅の階段は〈スペイン階段〉と呼ばれる。18世紀、日本で言えば江戸時代中頃に造られた。
近くにスペイン大使館があったためそう呼ばれるようになったが、スペイン階段の工事費を出資したのはフランスである。
階段の上、正面の丘の上には2つの塔がある。トリニータ・デイ・モンティ教会だ。

映画『ローマの休日』(1953)で、アン王女がジェラートを食べた場所として知られるようになったが、汚れるため、今は、ジェラートを売る店は出店できないようになった。
近くには〈カフェ・グレコ〉(1760開店)がある。
(北から来た)ドイツ人芸術家の溜まり場だった。
〈イングレーズ〉は英国人の溜まり場のカフェ。

《バルカッチャ》
スペイン階段の前にあるのが〈コンドッティ通り〉。スペイン広場の真ん中にあたるが、そこに奇妙な水盤がある。水盤の中にバルカッチャ(船)の彫刻がある。Fontana della Barcaccia 船の噴水とも呼ばれる。
この辺りは、テベレ川が氾濫すると、土砂が押し寄せた。おんぼろ船がそこに辿り着いたというエピソードが残る。

1629年、ウルバヌス8世がピエトロ・ベルニーニ、ジャンロレンツォ・ベルニーニ親子に発注した。どちらがどこ迄作ったかははっきりしない。

この辺りは坂道の一番上にあたるため、水圧を得るのが困難。ために、噴水と言っても、噴き出る程には作れなかった。
この水は飲む事ができる。これをペットボトルに入れて持っていく地元の人もいる由。

歴代の皇帝の使命の1つはローマ市民に水を確保する事だった。
〈アクア・ヴェルジーネ(ヴェルジーネ水道)〉がこの地下にも来ている。その水道の一番最後の地点が〈トレビの泉〉だ。

◆ジャンロレンツォ・ベルニーニ(1598-1680)

・ナポリ生れ、ローマで没。
・父ピエトロも彫刻家。
・3代の教皇との関係、
ウルバヌス8世、インノケンティウス10世、アレクサンデル7世に仕えたが、前者と後者に重用されるも、中者は彼を評価せず、干された。

ベルニーニの才能を最初に見出したのは、シピオーネ・ボルゲーゼ(1576-1633)。枢機卿に迄上り詰めた。
彼は教皇パウルス5世の甥に当たる。
教皇は結婚できないため、当然子供もいない。そこで、兄弟の子を重用した。こうした縁故重視人事を「ネポティズム」と言う。

ボルゲーゼ美術館には、ベルニーニが作った彼の胸像がある。
彼は当代美術の価値を認めコレクションした。
それらの多くは今日、ボルゲーゼ美術館で展示されている。
他に、
《アポロとダフネ》(1625)
高さ2m40cmくらい。27歳の年の作品。
神話に曰く、神はダフネに言った、そんなにアポロが嫌いならば月桂樹にしてやろう、と。
ダフネが月桂樹に変わろうとする一瞬の美を表現している。

《ダヴィデ》
170cm、等身大。石弓を投げようとして身体を曲げた瞬間の動きを表現。
ミケランジェロの《ダヴィデ》は敵ゴリアテに正対し真っ直ぐに見据えている静的な姿を表現。
全く対照的な制作意図である。
ルネサンスは均衡、安定、静謐の美を求めた。
対して、バロックは動きや情動を求めた。そのためアンバランスな造形となる事が多い。
ダヴィデの顔はベルニーニ自身の顔だという説もある。

《プロセルピナの略奪》(1622)
冥界の王プルートは、プロセルピナを愛で、冥界に引っ張り込もうとする。足元にいる山犬は冥界に住む動物。
プロセルピナの頬に一滴の涙。
プルートの指がプロセルピナの肉体に食い込む様子。大理石で指の力の強さと、女性の肉体の柔らかさの両面を彫り出した、天才的な技。

◇ウルバヌス8世(在位1623-44)
フィレンツェのバルベリーニ家出身。
「ウルバヌスは、自分の治世のうちに、自分の尽力でローマにももう一人のミケランジェロを生み出そうという、賞賛すべき野望を抱いた。」(伝記作家バルデヌッチ)

4世紀から、聖ペテロの亡骸が埋められていると言われるヴァチカンの丘に、サン・ピエトロ大聖堂を完成させたいという大事業は、人々によって希求され続けた。
16世紀には、ブラマンテ,ラファエロ等、25年毎にやってくる聖年の度に、これに相応しい大きなものが幾度も設計された。
現在の丸屋根はミケランジェロ設計。
16〜17世紀には、身廊はラテン十字に引き伸ばされた。
神の腕のような列柱廊で囲まれる広場は、ベルニーニの設計。

《バルダッキーノ》
ベルニーニ作、ブロンズ他、高さ29m。
正面から入っていくと、この巨大な脚が額縁となって、その向こうに大事なものが見える。
即ちカテドラル(*)・ペテロ(ペテロの椅子)である。4人の博士が聖ペテロの大椅子を取り囲む。
4本の捻じれた柱,天蓋はブロンズ、一部木材も使用される。
天蓋からぶら下がる垂れ幕には、3匹の蜂がデザインされている。これはバルベリーニ家の紋章。

(*)「カテドラル」は「司教座」のある教会を指す。司教座のあるなしは教会の規模とは関係ない。
「ドゥオーモ」はドームが語源ではない。「最も重要な」教会という意味。

〈ウルバヌス8世墓碑〉
〈アレクサンデル7世墓碑〉
バルダッキーノを中心にして右に前者、左に後者が設置されている。
前者は右手の平を正面に向けて出している。これは信者に祝福を与えるポーズ。

〈トリトーネの噴水〉
ウルバヌス8世の注文によって、バルベリーニ広場に造られた。
水盤の中央に4頭のイルカ。その間に3匹の蜂のバルベリーニ家紋章が彫られてる。(近くに〈ハチの噴水〉もある。)
イルカの上に中段の水盤。その上にトリトンがいて、ホラ貝を吹いている。トリトンがホラ貝を吹くと水が噴き出るという奇矯な仕掛け。
この奇矯さもバロック性格の1つ。

◇インノケンティウス10世(在位1644-55)
肖像画はベラスケス作のものが最も有名で、最高の出来。

パンフィーリ家出身。バルベリーニ家とは犬猿の間柄。
ウルバヌス8世が重用した人物は次々干された。
癇癪持ちで、学芸には興味がなかった。
したがって、芸術的には冷えた時代となった。

ベルニーニはこの時代、別の人達から注文を貰った。
例えば、コルナーロ家。
《聖テレジアの法悦》
サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリーア聖堂のロルナ―ロ家礼拝堂。
テレジアは信仰によって神と深い交わりを得たいと希求。天使の手には火の点いた神の矢。これからそれを射すのか抜いたところか?
肉体の痛み=神との交流による精神の悦び。
コルナーロ家の寄進を受けて、聖堂奥に同家用礼拝堂を造った。
テレジアがいる場をステージとすれば、桟敷にいるのはコルナーロ家の人々の彫像。
劇場的空間は、バロックの性格の1つ。

〈ナヴォナ広場〉
南北に長い蒲鉾型。
1世紀にドミティアヌス帝が造らせた陸上競技場がそのベースになっている。
トラックと3万人収容できたスタジアムのあった場所は、今は建造物が取り囲んでいる。

ナヴォナの語源説。
Circus agone
agone=競技
 ↓
Nagone
 ↓
Navona

ルッカのメルカート広場にも、古代競技場が広場に転用された跡がある。

〈四大河の噴水〉
ベルニーニ総合プロデュースによる。
4人の擬人像=アジア(ガンジス川),ヨーロッパ(ドナウ川),南米(ラプラタ川),アフリカ(ナイル川)。
櫂を持つターバンの男=インド人。ゾウが横にいる。
南米の男の腿には金貨が彫られている。金を産する南米のイメージ。アルマジロが横に。
布で顔を隠す男。ヨーロッパからすると未開の地のイメージ。ライオンが横に。
ヨーロッパの男の脇には馬。
これらの上にオベリスクがそそり立つ。
オベリスクの上には普通十字架を置いて、巡礼者達に判るようにしたのだが、インノケンティウス10世は鳩の彫刻をそこに設置させた。
パンフィーリ家の紋章は、オリーヴの枝をくわえた鳩だった。

ベルニーニを干したインノケンティウス10世だったが、この広場の大築造のためには彼を使わざるを得なかった。

ナヴォナ広場は、19世紀迄「ラーゴ」の祭で知られていた。「ラーゴ」は英語の「レイク」の語源。
〈四大河の噴水〉の排水溝を塞ぎ、水を溢れさせ、広場全体を湖のようにした。
ベルニーニのアイデアによって始まったそれは、バロック時代の劇場的性格をよく表している。
ナヴォナ広場はローマっ子のため、スペイン広場は外国人のためにある、という言い方がある。
ローマっ子はナヴォナ広場が大好きだ。

静岡県立大学(1987〜)のキャンパスは、ナヴォナ広場を模して長い蒲鉾型をしている。
 
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