mixiユーザー(id:3341406)

2017年03月24日09:00

2383 view

NHK-BS[映像の世紀プレミアム]第3集『世界を変えた女たち』〜その3

(続き)

◆女たちの冷たい戦争

このチャプタータイトルは「冷戦期の…」という意味だと考えればいいだろう。

第2次大戦後、女性たちは軍需工場からまた家庭に戻った。

戦中、軍需工場で働いていたノーマ・ジーンは、軍のカメラマンに働いている写真を撮られたのが元で、モデル事務所にスカウトされていた。
彼女は、マリリン・モンローと名を変えて、世界中の男たちのセックス・シンボルとなった。
1954年、モンローは伝説的大リーガー ジョー・ディマジオを伴って新婚旅行に日本を訪れた。
彼女は軍から特命を受けていて、夫を置いて日本を抜けだし、朝鮮半島へ渡った。朝鮮戦争を戦うアメリカ軍兵士を慰問する為である。
分厚いジャンパーを着込んだ10万人の兵士たちの前、ステージに肌も露わに登場するモンローは痛々しい。
みぞれも降っていて、吐く息も白い。極寒の韓国で10回ものコンサートを行い、風邪をひくが、そんな様子はおくびにも出さなかった。

モンローは誰のものだったのだろう。田舎出のノーマ・ジーンという1人の女性にとって、「モンロー」とは一体何だったのだろうか。
1962年5/19、前年に大統領に就任したJ・F・ケネディの誕生日パーティに呼ばれたモンロー。
新婦ジャクリーンはこの式に欠席した。モンローはケネディの愛人だと囁かれていた。
ステージ上で”Happy birthday”を歌うモンローは病的に見える。
同年8/8、モンローの死体が自宅で発見された。自殺という事になったが、謎も多い。36歳だった。

1963年11/22、ケネディ、ダラスで暗殺される。

その前後の女性たちの関係した出来事や事件を、時系列でピックアップする。

1960年6/15、安保闘争で国会に乱入した学生たちは警官隊と衝突、流血の惨事となる。東大文学部の学生、樺美智子(22歳)が死んだ。
1962年、生物学者のレイチェル・カーンが『沈黙の春』で化学薬品による環境破壊を訴える。DDTの使用が禁止されたのは10年も後の1972年。それを確認せずに、カーンは1964年に死んだ。
1963年6/16、ワレンチナ・テレシコワがボストーク6号に乗り、70時間余りで地球を48周した。
彼女は、ソ連のプロパガンダとして利用され、後、共産党の最高幹部の1人となった。
1966〜90年、文化大革命。毛沢東夫人江青等の首謀。1981年11月、最高人民裁判所で死刑判決。無期懲役に減刑されるも獄中で自殺。

1960年代はウーマンリブ運動に火が点いた時代でもある。

世界を巻き込んだこの渦の中に1人の女子大生がいた、ヒラリー・ロダム(後、結婚してクリントン)である。
ウェルズリー大学の卒業式で彼女は代表でスピーチを行った、
「教育の目標は人間の解放であるべきです。解放されることで私たちは能力を開花させ、自由を勝ち取ることができます。
恐れは常に私たちを襲います。しかし私たちに今、恐れにとらわれている時間などないのです」。

女性の自立という風潮が後押しし、あのココ・シャネルが復活、トップブランドに返り咲いた。
戦後モード界をリードしたのは、「女性らしさ」を強調したディオールやサンローラン等男性デザイナーだった。そこにシャネルは風穴を開けた。
1967年、シャネルのファッションショーはモスクワでも行われた。1万人以上の客が駆けつけたと言われる。
その4年後の1971年、シャネルは死ぬ。87歳だった。看取ったのは、たった1人のメイドだった。

◆世界に立ち向かった女たち

東欧の社会主義国チェコスロバキアは急激な民主化を進展させ、「プラハの春」と呼ばれた。
それを危惧したソ連軍が、1968年8月、プラハに侵入、7,000台の戦車で占拠した。
その直後の10月、メキシコオリンピックが開幕した。
チェコの体操選手ベラ・チャスラフスカは4つの金メダルを獲得する活躍を見せた。
そして、彼女は、身をもって大国の横暴に抗議した。
床運動では同点のソ連選手と2人で金メダルを分け合った。
表彰式では、2人が台の一番上に上り、チェコとソ連の国旗が並んで掲揚、2つの国歌が続けて演奏された。
ソ連国家が演奏され始めると、チャスラフスカの笑顔は消え、目を右下にそむけた。が、それが終わると、彼女はソ連の金メダリストと目を合わせ、僅かに微笑んだように見えた。
彼女が無言で何を訴えたかったか、テレビ画面、新聞の写真を通じて全世界の人々が理解した。

1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。
すると、東欧の社会主義国はドミノ倒しのようにその政権が崩れていった。
チェコでは、民主化を求める学生等のデモが20万人に拡大、遂に共産党の独裁政府が打倒された。
流血ナシで成し遂げられた事から「ビロード革命」と呼ばれるようになった。
同年11/24、招かれたチャスラフスカは、人で埋め尽くされた中央広場のベランダからスピーチを行った。
体操選手として引退後も、彼女は共産党政権の圧政に抗議を続けていた。
「私の人生はずっとスポーツ一筋でした。
最高の感動と幸せを経験してきました。
その中でも忘れられないのは、表彰台のてっぺんに立ち、祖国の旗を見た瞬間です。
私が愛したその旗は、どんな犠牲にも耐え抜く覚悟をくれました。
そして、私たちは今日という日を迎えました。
暴力を排し、誰もが望んできた願いを実現させましょう。」

チャスラフスカは昨2016年8月、74歳の生涯を閉じた。

さて、最後は、21世紀の話である。

語らなければならないのは、誰よりもまずマララ・ユスフザイである。
2014年、17歳の彼女は、ノーベル賞授賞式で、史上最年少で平和賞を受賞した。
2012年10月、故国パキスタンで、女性が教育を受ける権利を訴えていたマララは、ミンゴラでタリバンの襲撃を受けて、死の縁を彷徨った。
2013年7/12には、国連本部の会場で小さな彼女はスピーチを行う、
「タリバンの銃弾は私たちを黙らせることはできませんでした。
私の生き方は少しも変わっていません。
むしろ、弱さや恐れ、絶望は消え、強さと勇気が生まれました」。
彼女は世界の指導者たちから満場の拍手を受けた。
マララは、今、シリア難民の為の女子校の建設の取り組みを行っている。
レバノンにできたマララ・ユスフザイ女子校を訪れた彼女を迎える少女たち。
世界では、その後を追い、無数のマララが闘いを続けていく事だろう。

ヒラリー・クリントンがここでもう一度登場する。
2016年11/9、史上初のアメリカ女性大統領を目指した彼女は、ニューヨークで敗戦の弁を述べた。
それは歴史に残る名スピーチとして、今後、多くの女性が幾度も聴き直す事になるだろう。
「私は人生をかけて、自らの信念のために戦ってきました。
成功もありましたが、挫折もありました。
時に深く傷つくこともありました。
このガラスの天井はどこまでも高く、そして頑丈です。
でもいつの日か、誰かが、きっと私たちが考えるよりもっと早くそれを打ち破ってくれるでしょう。
今、この映像を見ている全ての女の子たちに伝えます。
決して忘れないで、
あなたたちはかけがえのない存在で、大きな力を持っていて、この世界のどんなことにも挑戦する資格があることを。
あなた自身の夢を追いかけ、実現してください」。

数年後、数10年後、きっと誰かが第2のヒラリーとして現れる日がくるだろう。
トランプに票を投じた人達が誤りに気付く時、分断された人類の間に生じた憎しみのせいで次の戦争が起きていない事を祈るばかりだ。

最後の1行は私の思いであって、番組では言っていない事を念の為に書き添えておく。


ディレクター 後藤遷也
編集 日高隆志
音楽 加古隆
 
0 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年03月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 

最近の日記