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2020年01月07日18:42

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1月7日 [雑記]斜行陣でもドーにもならない!!

 戦勝のための客観的で万古不易の原理・原則が存在するとし、それを戦史から引き出すことで、戦争に勝利するための方法論[How to Win]を打ち建てようとした19世紀のスイス生まれの兵学者アントワーヌ=アンリ・ジョミニ(1799〜1869)は、フリードリヒ大王が七年戦争(1756〜63)のロイテンの戦い(1757年12月5日)で用いて、オーストリア軍を打ち負かした「斜めの戦闘序列」(18世紀の後半、特に優勢な敵を攻撃する場合にしばしば用いられた戦術上の形式。攻撃部隊は敵正面に対し斜めの隊形をもって前進し、最初に敵に接触する強力な方の翼は、対峙する敵の歩兵部隊を圧倒して側面および背後から敵軍を攻撃する。他方弱勢な方の翼は、まだ攻撃されていない敵部隊の戦闘加入を妨げる)こそは、みずからが定立した作戦の基本原理「戦場において我が主力を決勝点か敵の緊要個所に指向して打撃する」に合致した戦法として、弱冠25歳でものし、ナポレオン軍の帷幄に参画するきっかけとなった文字どおりの出世作である『大陸軍作戦論』(1804)で、この戦闘序列をさかんに推奨している。
 この『大陸軍作戦論』では、第6篇から第7篇に亙り、図入りで「斜めの戦闘序列」について、微に入り細を穿った、くだくだとした解説がなされている。
 それによると、この戦闘序列を以て我が持てる有効戦力の半数を一翼に集中(弱勢翼は戦闘の圏外にあって敵への牽制の役目を演じる)して、敵の脆弱な翼側に対して斜交して包囲的に前進することにより、敵に我が戦列に正対すべく方向変換を行なう暇さえ与えることなく(兵力移動も我が方の弱勢翼によって妨げられるから)、たちどころに圧倒し去ること請け合いである、と。
 それは、たとい敵が百戦錬磨の「驍将猛卒」ぞろいであろうとも、こうなっては恐慌狼狽して抵抗するすべはなく、彼らの士気を全く沮喪せしめて、小銃一発を射つまでもなく容易に勝利できるであろうとまで太鼓判まで押してみせている(資料[1]参照)。
 かたや、19世紀を代表する兵学者としてジョミニと併称されたプロイセンのカール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780〜1831)が、その浩瀚な『戦争論』(1832)の中で、フリードリヒ大王の「斜めの戦闘序列」について述べているのは、管見の及ぶ範囲でわずかに2か所しか見当たらない。
 しかもそれは、「斜めの戦闘序列」は、整然とした横広の隊形をとって(歩兵の銃火力を発揚するのには横隊が最適であった)対面した軍隊同士が、いわば「平押し」で会戦の勝敗を決することがオーソドックスであった当時において、戦争機械さながらに精練され、一糸乱れぬ鉄の軍紀と高い機動力で一頭地を抜いていたプロイセン軍を率いた、フリードリヒ大王という不世出の将帥が用いてはじめて偉効を奏したものである。
 フリードリヒ大王の時代から既に半世紀もたった現代(19世紀初頭)では、戦争についての学がいちじるしく進歩したうえに、ヨーロッパ諸国の軍隊の訓練度も軒なみレベル・アップしていて(資料[2]参照)、往年のプロイセン軍の機動力という強みもすっかり色褪せてしまっている。
 そして、「斜めの戦闘序列」のような、横広に延伸した敵線の脆弱な側面に回り込むという機動方式も、戦線に縦深(奥行)を厚く確保することによって対策が講じられるようになり(資料[3]参照)、既に時代にそぐわない古めかしい戦法となり了っている。
 それにも拘らず、なおも大王の成功体験に眩惑されて、一軍の司令官が「何とかの一つ覚え」にようにこれを模範的先例・倣うべき戦法として踏襲しているようでは、戦争に勝つなど到底覚束ない、という警告の意味合いで引き合いに出しているものなのだ。
 現にプロイセン軍は1806年10月のイエナ・アウエルシュタットの会戦で、「伝家の宝刀」とばかりこの「斜めの戦闘序列」で、密集隊形を取って突進してくるナポレオンのフランス軍にぶつかって軽く一蹴されてしまっていた。
 「それぞれの時代に、その時代の独特な戦争があり、それぞれ独特な戦争理論があったといえるであろう」―戦争がそれぞれの時代によって異なる姿をとり、ある時代に有効であった手法も、その時代の特定の状況のもとでのみ有用とされた一時的な現象にすぎない―と口酸っぱく主張しているクラウゼヴィッツにして、戦争に勝つために時と所を選ばず普遍的に妥当する手法が儼存する(はずだ!)という、ジョミニのような「方法(マニュアル)主義」には与さないのは当然のことである。
 勿論、クラウゼヴィッツにしても、ロイテンでフリードリヒ大王がオーストリア軍を「斜めの戦闘序列」による兵力の一点集中で破った事実を認めることに吝かではない(資料[4]参照。「フリードリヒ二世は、ロイテンの戦いで何とか勝利を収めましたが、その勝因は彼が小さな自軍を一ヵ所に集結し、敵軍よりも戦力の集中を徹底させたためでした」『戦争術の大原則 皇太子殿下への進講の捕捉として』)。
 しかし、それを成し遂げることができたのは、「行進途中にオーストリア軍から側面を衝かれるかもしれない」、「牽制に任ずる我が弱勢翼が不利な戦闘に捲き込まれて犠牲になるかもしれない」といった想定される数々のリスクを前にひるむをことなく、一か八かオーストリア軍に横腹を曝してその前面を斜行進して、その左翼に主力を集中させた大王の「果断」あってであり、またプロイセン軍の行進を、てっきり退却するものと勘違いして、「敵兵は今や退却中である。然し吾人は此の哀れむべき彼等を無事に退去せしめん」と、敢て手出ししなかったオーストリア軍のダウン元帥の失策という「偶然」も与かっていた。
 クラウゼヴィッツは、プロイセンの次代をになう皇太子(後のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世)にむけての講義のなかで、ロイテンでフリードリヒ大王は「オーストリア軍を撃破できると確信した上で、あの攻撃(オーストリア軍左翼への斜行進)を行ったわけではない」と強調する。
 訓練や士気においていささか勝っていたかもしれないが、兵力では劣っていたプロイセン軍が、オーストリア軍を破る一縷の望みを繋ぐとしたならば、敵前縦列行進を伴う「斜めの戦闘序列」の採用は、「ハイリスク・ハイリターン」な策であったにしても、「これ以上によい方法がなく、可能な限り手を尽くしても十分な優勢が期待できないのならば、あとに残された一手が合理的な一手」であったにすぎない(『戦争術の大原則』)。
 ジョミニは、戦争には「もしこれを無視すれば危険に陥るが、反対にこれにのっとれば殆どの場合勝利の栄冠を得るであろう若干の基本原理が存在する」(ジョミニ『戦争概論』佐藤徳太郎・訳/中央公論社/2001)と、戦争という複雑な社会現象から、計測不能な精神的要素を努めて排除したうえで、過度に抽象化・単純化されて、「数学的な確実性」「論理的な必然性」をもつ、いかなる時代・状況をこえて妥当する幾つかの「法則」に集約(有効兵力の大半を決勝点[勝敗の岐路になる地点]に集結する等)させて、戦場の指揮官の実務的手引きとなる戦争理論を構築しようとした。
 これに対してクラウゼヴィッツは、戦争においては人間の精神が自由に活動し、偶然や幸運、不運といった要素も大きく作用するため、そこには「不確かなものの跋扈する余地が随処に残」されており、従って「勝利の可能性に賭けるなど、戦争には賭けの性質が混入している」と見ていた。彼は皇太子に対する講義のなかで、戦争において、危険を前にして尻込みして無為無策に陥ったりすることなく、己に残されている僅かな「不確かな蓋然性」に賭けて、「勇気と自信」をもって行動をおこすことのできる将帥こそ、危機を克服して、運命を味方につけて大きな成功を掴み取ることができる(資料[5]参照)と、たとい戦争において危機に際会しても、「冷静さと意志の強さ」を失うことなく、決心を迫られたときには、大死一番、一命を賭する覚悟で断を下せるよう、普段からの鍛錬が緊要であると発破をかけているのである(資料[6]参照)。
 常勝将軍ナポレオン率いるフランス軍にあって、得々として「勝つべくして勝つ」法則をぶちあげてみせたジョミニと、ナポレオンに蹂躙され、没落しつつあるプロイセンにあって、意気消沈する国民にむかって、「戦争とは所詮は水もの」だから、弱者にも一発逆転、起死回生の勝機は残されていると、なかば負け惜しみ混じりに、声を大にして叫んだクラウゼヴィッツ、あたしゃ、こういう「精神論」はあながち嫌じゃないのだが……。

プロイセン国民よ!ナポレオンが恐いとて「ジーとしていったって、ドーにもならない!!」


(資料[1])
「……ロイテンの戦に普王の隊次は全く是(平行隊次)と異なり、其攻撃せし敵の翼端に我全線を以て迫るのみならず、我兵は逐次其側面に迂回し、運動をも為さず、其方向も延伸せず、唯、斜向線を前進して敵の背後に出づるに至れり。其戦線中に攻撃を行はざる各部隊は遠く敵兵と隔離するを以て優勢の敵兵に撃たるゝの危険なきのみならず、却って我が攻撃せる翼兵を支援するを得たり……。
 斜向隊次の成績は人の遍く知る所なれども、兵家の深く思考すべき所なり。此隊次は其他決勝の利益あり。我軍此隊次を以て敵を攻めば我攻撃せる翼端は我が全軍の半数に逐次撃破せらるべく、彼能く反対運動を為すも、敢て我が行進を阻遏すること能はざるなり。試みに看よ、我兵既に敵の側面を迂回して背後に出たる場合には何等の驍将猛卒と雖も、奈何ぞ之に抗拒するを得んや。此時に方りて敵の全線は人心悉く沮喪して、狼狽為す所を知らず、終に瓦解を致すべきなり。
……此隊次の性質たる、必ず敵の一翼を攻撃し、戦線中此攻撃を行ふ部分には兵数を増加して敵軍の側面及び背後に迂回せざるべからず。然れども敵軍も亦等しく其攻撃せらるゝ部分に兵数を増加して之を援助するの方便を有するが故に、敵をして我が攻撃せんとする部分を悟らしめず、何れの部分に向って増兵すべきや其方向に迷はしめ、其の間に我は戦線を布くべし。已に戦線を布くや唯猛烈果敢に敵兵を攻撃して其防禦の方法を立つるに暇なからしめ、小銃の如きは一発をも放つこと無く、全軍を圧倒するに在るのみ。」(参謀本部訳『七年戦論 上巻』明治23[1890]年)

(資料[2])
「現今ではヨーロッパ諸国の軍が、練達と訓練という点ではいずれも同一の水準に達しているということ、また戦争指導も、(哲学者の用語を借りれば)自然的本性に従って発達し今ではすでに一種の方法となっていることは明白な事実である。そして殆んどすべての国の軍がこの方法を身につけているので、将帥としてはもはや狭い意味での特殊な手段(フリードリヒ大王の使用した「斜めの戦闘序列」のような)を使用する見込がないと言ってよい。」(クラウゼヴィッツ『戦争論〈上〉』第三篇第四章)

(資料[3])
「かつてフリードリヒ二世が率いたプロイセン軍の優位は、機動力にありました。しかし、他国の軍隊も同じ程度の機動力を獲得しつつありますので、もはやプロイセンには優位性がありません。また、側面に回り込む機動は当時の戦闘ではほとんど行われていなかったので、縦深を確保した陣形も、過去にはそれほど重要ではありませんでしたが、今日ではより重要な陣形になっています。」(カール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争術の大原則 皇太子殿下への進講の捕捉として』1810〜12年)

(資料[4])
「……攻撃目標は敵陣の一点(つまり、一個の部隊、師団、あるいは軍団)に絞って選び、これを圧倒的な優勢でもって攻撃しなければなりません。この攻撃が行われる間、他の部隊は不利な状況に置かれることになりますが、そのことは許容しなければなりません。
これは味方が敵と同じ勢力である場合や、劣勢な場合において、有利な態勢で戦闘を遂行し、勝利を得るための唯一の方法です……。
……フリードリヒ二世は、ロイテンの戦いで何とか勝利を収めましたが、その勝因は彼が小さな自軍を一ヵ所に集結し、敵軍よりも戦力の集中を徹底させたためでした。」(『戦争術の大原則』)

(資料[5])
「敵の情勢に関する正しい判定、劣勢な戦闘力を暫時にもせよ敵に対置する大胆な遣り方、幾度か強行軍を敢てする気力、急襲を行う胆勇、危険に面していやましに募る行動力―これこそ輝かしい勝利の原因なのである。」(カール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争論〈上〉』第三篇第八章。篠田英雄訳/岩波文庫/1992)

(資料[6])
「戦争で厳しい状況に置かれることになられましても、殿下におかれましては冷静さと意志の強さを失ってはなりません。
これら二つの精神状態は、戦争において非常に大きな重要性を持っています。なぜなら、戦争でこれらの精神状態を保つことは、非常に難しいためです。
冷静さと意志の強さが消えてしまえば、どれほど素晴らしい思考力をお持ちになられていても、それを活用できなくなります。
このような事態を防ぐためには、名誉の戦死という観念を心に留めていただかなければなりません。普段から、ご自身が名誉の戦死を遂げることをお覚悟ください。
……第三次シュレージェン戦争におけるフリードリヒ2世は、まさにこの考え方をお持ちでした。つまり、名誉の戦死を遂げるお覚悟を固めておられたからこそ、あのよく知られる12月5日のロイテンの戦いにおいて、オーストリア軍に対し決死の攻撃を敢行することが可能だったのです。
フリードリヒ2世は、オーストリア軍を撃破できると確信した上で、あの攻撃を行ったわけではありませんでした。」(『戦争術の大原則」)
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