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2019年11月28日22:58

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11月28日 儂らの七年間戦争(トンチキな大人[オーストリア]に宣戦布告!)

「譲れないもの(シュレージェン)のために我を通せるのが馬鹿者の特権ってやつです」


 七年戦争(1756〜63年)開戦当初から、プロイセン国王フリードリヒ2世が、それまでの二次に亙る対オーストリア戦争(第一次[1740年12月〜42年6月]・第二次[1744年8月〜45年12月])で領有権を獲得した豊饒な資源地帯シュレージェンの死守のみを唯一の戦争目的とし、オーストリアとその同盟国(フランス・ロシア・スウェーデン、ザクセン等のドイツの諸領邦)の軍隊を決戦によって完膚なきまでに叩きのめして屈服させる意図を有していなかったことに異論はない。
 しかし、そうは言っても、ドイツ第二帝政下(1870〜1918)の歴史家ハンス・デルブリュックが「政治史的枠組みの中における戦争術の歴史」(1920)で説いたごとく、フリードリヒが、ナポレオンばりの敵野戦軍主力の撃滅打倒を軍事行動の至上の準則とする“殲滅戦略”家ではなく、占領した土地の確保を第一義となし、会戦と機動(軍隊の移動)の双極を移行しつつ、同盟軍を疲労させる長期持久戦にもちこみ、その継戦意志を挫折させることを眼目とした典型的な“消耗戦略”家と決めつけるのも、いささか牽強付会の嫌いがあるようにも思われる。
 なるほど、“消耗戦略”に徹すれば、かぎられた兵力・資源を一時に消尽することなく、節約・維持できて「経済的」な気もしないではない。しかし、消耗戦で真っ先に音をあげるのは国力に乏しい側である。プロイセンと反プロイセン同盟諸国の国勢を比較して観れば、プロイセンの領土面積は16㎢で、オーストリアの約3分の1にすぎず、人口ではプロイセン460万にたいし、同盟側は約1億、兵力でプロイセンの18万(最大動員数20万、戦争中盤以降は戦闘の損耗に補充が追いつかず、13、4歳の少年まで徴集する破目となった)にたいし、同盟側は43万を擁していた。プロイセンは歳入1,200万ターラー、戦時に備えて国庫には1,600万ターラーの余剰金と、穀庫には10万の軍隊を18ヶ月のやしなうに足るだけの小麦・燕麦の貯えがあったが、国債は一文もなく、戦争が長引けば長引くほど、体力に乏しいプロイセンが参るのは火を睹るより明らかであった。
 ところで、フリードリヒが“消耗戦略”家であるとする証左の一つにデルブリュックは、1756年8月の開戦劈頭にフリードリヒが、ベーメン(ボヘミア。現在のチェコ共和国の西部・中部)からメーレン(モラヴィア。同国東部)を経て、主敵オーストリアの内懐に飛びこんでその首都ヴィーンを衝くことはせずに、まず西隣のザクセン選帝侯国を征服したことを挙げている(アントワーヌ=アンリ・ジョミニの『七年戦論』―『大陸軍作戦論』[1804]の前篇4章をアメリカで英訳・刊行したものを、日本の参謀本部が輸入して明治23[1890]年に日本語(但し文語調である)で重訳したもの―に引かれているイギリスの軍事学者ヘンリー・ロイド[1720〜83年]の論評によれば、1755年の終りより翌56年の初めに至る間にフリードリヒは既に欧州列強が同盟してプロイセンを謀ろうとしていることを諜報によって探知していた。この時にプロイセン軍は戦争にむけて整備が完了されていたのに、フリードリヒは殊更に「曠日弥久(むなしく日月を費やして、久しきにわたること)空しく得難き機会を失」った。テンペルホーフ等のプロイセンの軍学者が、フリードリヒがザクセンに侵入したのを得策であったとするに至っては「奇と称せざるを得ない」。若しフリードリヒがモラヴィア(現在のチェコ共和国東部)に入りオルミュッツ(モラヴィア中部)から急進してヴィーンに迫ったならば「其の功必ず大」であったろう。ザクセンがオーストリアと合従したのは元々その欲する所ではないので、ヴィーンが衝かれたならば、ザクセンは同盟から必ず離脱したであろう。オーストリア軍はフランドル・イタリア・ハンガリーに散在して未だ集結するに至らず、プロイセン軍が突如としてオーストリアの中心に出現すれば彼らは「安(いずく)んぞ狼狽せらるを得んや」。然るにザクセンに侵入したのは列強の怨みを買う原因となったばかりか、ザクセン人民をして「永く敵国たらしむるに過ぎ」なかった。プロイセン王は、はじめから戦争にたいし局外中立の立場をとろうとしていたザクセンを攻めて、徒らに時日を徒過したのであって、どうしてこれを得策ということができよう、と辛辣に批判している)。
 ザクセンがフリードリヒの餌食第一号とされた理由には、一つにはザクセンがオーストリア・ロシア・フランスの同盟に一枚咬んでおり、そのなかでは一際「弱い環」であったこと。第二にザクセンを掌握することで対オーストリア戦を遂行するうえに必須な人的・物的資源の供給が見込まれたこと(ザクセン平定後、ザクセン軍の投降兵をプロイセン軍に改編する措置が取られたが、これらの兵士はスパルタ式に鍛えあげられたプロイセン軍兵士に比して当然に士気・紀律・訓練面で劣っており、後にプロイセン軍の将校を銃殺して大半が逃亡してしまった。一方で戦時経済的には、ザクセンから徴収した軍税は当初は年額500万ターラーにのぼり、戦争後半の1760年には1,200万ターラー、61年に800ターラー、62年に700ターラーと、プロイセン軍の1年分の支出約2,000万ターラー[プロイセンの平時歳入は約1,200万ターラー]の内でかなりの比率を占めるようになった)。第三に、東進してくるフランス軍の進攻を防ぐ障壁として使えることは勿論のこと、ベーメンから北上してくるオーストリア軍に対してプロイセンを防衛する前哨基地としてもザクセンを押さえておくことは有利であった(東部のシュレージェン方面は堅固な要塞群に守られており、たといオーストリア軍の進攻をうけた場合にも、それを喰いとめる自信がフリードリヒにはあった)。
 しかし、上記の3つの理由にもましてフリードリヒが重視していたのは、ザクセンを“担保”にして、その返還を条件にオーストリアとの和平交渉に漕ぎつけることによって、戦わずして反プロイセン同盟を空中分解させる「奇策」にあった。
 このフリードリヒの「常識の斜め上を行く」奇策にオーストリアは応じることなく(「1757年初頭、フリードリヒはザクセンを返還して和せんと望みしが、墺国の容るるところとならず、名外交家カウニッツ[オーストリア宰相/1711〜94]の巧妙なる努力に依り、反プロイセン同盟の結束は愈々鞏固となれり。」四手井綱正『戦争史概観』)、また赤子の手を捻るくらい造作もなくプロイセン軍の勢威の前に兜をぬいでひれ伏すものと高を括っていたザクセン選帝侯アウグスト3世は、首都ドレスデンを早々に退去して、17,000の兵を率いて難攻不落で鳴る南部のピルナの要塞に立てこもり、ベーメンからザクセン危急の報をうけ北上してくるオーストリアの援軍を徐に待つ構えを示した。果してブラウン公に率いられた34,000のオーストリアがベーメン北部ロボジッツに到達し、フリードリヒはそのザクセン進入を阻止すべく、28,000の軍を引き具してこれに戦いを挑んだ。プロイセン軍が戦場を俯瞰する丘陵上を占めたのにたいし、オーストリア軍は谷底の平地に展開するという明らかに不利な布陣を敷いたにも拘らず、プロイセン軍はオーストリアの頑強な抵抗を逢って予想外の苦戦を強いられ、激戦のすえにオーストリア軍を追い払うことには成功したものの、死傷者数では勝ったはずのプロイセン軍のほうが負けたはずのオーストリア軍を上回るという結果となった(資料[1]参照。フリードリヒは早々に勝利宣言をあげたが、エーリッヒ・ツェルナーの『オーストリア史』[彩流社/2000]では「基本的に決着がつかないまま終わった戦い」とされている)。
 更にこの戦いにおいて、プロイセン軍の兵站能力の脆弱性も露呈した。それは、プロイセンの歩兵が会戦のさなかに手持ちの銃砲弾を射耗し尽くして士気沮喪したところを、歩兵連隊長ベーヴェルン公(ブラウンシュヴァイク= ベーヴェルン公[1729〜1809])の「お前たちは銃剣で敵を突くことを知らないのか」との叱咤の掛け声で正気に戻り、銃剣突撃でオーストリア兵を蹴散らしたエピソードからも伺うことができる(資料[2]参照)。
 オーストリア軍敗走の報に接したピルナのザクセン軍はプロイセンの軍門に降り、プロイセン軍の部隊に再編されたが、オーストリア軍が前二回のシュレージェン戦争の当時とは打って変わって格段に力をつけていることに危機感を抱いたフリードリヒは(資料[3]参照)、フランスやロシアの軍隊が本格的に乗りだしてくる前に、オーストリアに決定的な打撃を与えることで戦争に終止符を打たんものと、宿将シュヴェリーン、側近のヴィンターフェルトの積極策を容れて、オーストリアの首都ウィーンをおびやかすべく、その前段として翌1757年5月初めにボヘミアの首府プラーグ[プラハ]城下に逼った。(資料[4]参照)
 プラハの東方でオーストリア軍の総司令官カール・アレクサンダー(神聖ローマ皇帝フランツ1世の弟で、皇帝の妻であるオーストリア女王マリア=テレジアにとっては義弟)公子の60,000の軍を打ち負かし、プラハ城内に押し込めたのは良かったが、この戦いで戦場偵察にあたったヴィンターフェルトが、オーストリア軍の前面に横たわる低湿地を見つけることができず、そのために前進したプロイセン軍はオーストリア軍の陣前で泥濘に足を取られたところを、小銃・大砲の釣瓶打ちをうけて大混乱におちいり、乱戦の中、軍旗を片手に陣頭に立って督戦していたシュヴェリーン元帥(御年72歳)が身に5発の銃弾を浴びて戦死、プロイセン軍の死傷者も64,000の参加兵力に対して14,000という膨大な数に上った。さらにプラハに閉じ込めたカール公子のオーストリア軍もプロイセン軍の勧降に応じず、8週間の攻城戦を堪え抜き、却って攻城用のプロイセン軍の50ポンド砲の弾が撃ち尽くされてしまったという体たらくとなった。
 そのうち6月に入ってプラハ解囲のために急派されたレオポルト・ダウン元帥(1705〜66)率いる50,000のオーストリア軍が接近してきたため、フリードリヒはこれを打ち払うべく35,000の軍を率いて、コリンで会戦に臨んだが、「3万の軍勢を以てよく10万を撃破することができる。」(フリードリヒ『戦争の一般原理』第25項)と豪語した「斜形戦闘隊形」は、オーストリア軍が巧みに方向を転換したために、側面からの包囲とはならずに真っ向勝負となり、そうなれば兵数の少ないプロイセン軍に勝ち味はなく、会戦に敗れたフリードリヒは、プラハの攻囲も解いて、ザクセンに撤収せざるをえなくなった。(資料[5]参照)
 こうして七年戦争の第一、第二年目を概観するに、フリードリヒは、反プロイセン同盟軍を圧服するだけの実力は持たなかったまでも、持久戦で相手を根負けさせようなどとは全く望んではおらず、飽くまでも「速戦即決」で戦争を終らせるべく、その機会を作為していたことが分る。それは第一年目には、征服したザクセンを「担保」にしたオーストリアへの和平交渉打診であり、第二年目には、同盟軍の来攻に先んじて、オーストリアの戦力を徹底的に叩きつぶすことにより、オーストリアが盟主である反プロイセン同盟を崩壊させることであった。残念ながらザクセンからの撤兵という虫のいい条件にオーストリアは乗ってこず、オーストリア軍を叩きつぶし、カール公子とダウン元帥を擒にする(のちにクラウゼヴィッツは、プロイセン軍がコリンの会戦でダウン軍を打ち負かし、プラハを陥落させてカールを生け捕りにしたならば、七年戦争は、その二年目で終結したであろうと『戦争論』で述べているが)目論見も呆気なく水の泡となってしまったのである。
そうして、戦局は、デルブリュックの曰く“消耗戦略”を、フリードリヒが不本意ながら採用せざるを得ない段階へと移っていくのである。

(資料[1])
「一七五六年十月一日フレデリキ王の率ゆるプロシャ軍はサクソニア軍を其の陣中に封鎖したるまゝ河を上って敵の援軍を邀へた。彼等はピルナの南約三十里なるロボジッツでブラウン(マクシミリアン・ユリシーズ・ブラウン[1705-57])将軍の率ゆるオーストリア軍と出会った。激戦七時間、両司令官の技倆相如き、両軍の勇気互に相下らず、死傷殆ど相当った。されどプロシャ軍の死物狂ひの攻撃は抗するに術なく銃剣頻りに相交った。オーストリア軍遂にその堅固な地位を棄てゝ市に退却した。プロシャ兵、火を放って市を焼き払った。オーストリア兵、火災の中に逃ぐる処を失ひ、エルベ河を渡らんとして溺死するもの甚だ多かった。此の血戦一段落となるや、ブラウン大将は其の軍を後方に退却させて尚もプロシャ軍に対抗の勢を示して居た。此の戦闘に於いてオーストリアの死傷二九八四人に上り、プロシャ軍は猶之より多く三三〇八人を算した。されど両軍孰れもその敗戦を承認しなかった。フレデリキ王記して曰ふ『余が歩騎両兵とも余が彼等を指揮し始めてよりまだ斯くの如き勇気の奇蹟を示したことはない。』と。」(ゼー・エス・シー・アボット『フレデリキ大王』実業之日本社/大正7年)

(資料[2])
「既にして両軍、ロボジッツ附近に会戦す。普軍僅に二万四千、墺軍は七万に余れり。然れども墺軍の配置其宜しきを失ひ、山又山の間に入りたれば、全軍を戦線内に排列すること能はず、殊に騎兵の如きは、全く戦争に与かることを得ず。時に普軍大小弾を雨注し、烈しく墺軍を攻撃せしが、砲撃凡そ六時間に渉りたるの後、普の左翼に於ては、弾丸竭きてまた供給を仰ぐの道なく、士気漸く沮喪せんとす。ベーヴェルン公絶叫すらく、『足下等は、銃鎗を以て敵を撃つことを知らざるや』と。此の一言に士気再び振ひて、縦横奮闘し、颷挙電発、向ふ所前なく、敵遂に支ふること能はずして敗走し、普軍、ロボジッツを攻略せり。
 此の一戦に、普軍、墺軍に対して第一着の勝利を博せり。然れども墺将ブラウンも亦『さるもの』なれば、たとひ配置の其法を得ざりしより、只一小部の兵を以て敵に当り、敗北を招きたりと雖も、而も隊伍を乱すことなく、整々として、エーゲル河を渡りて、プッヂンに退けり。
 フレデリックは、此の戦に由りて、今日の墺軍のまたシレジア戦の墺軍にあらざるを知り、将来を慮りて竊かに戒厳する所あり。同時に又我が軍の忠勇なるを感じて、深く望みを属し、奨励すらく、『朕今にして我が武夫等の大に為すあるに足れるを知り、其莫大の軍功を心に銘じて忘るゝことなし。汝等努めよや』と。」(渋江保『七年戦史 フレデリック大王』博文館/明治29)

(資料[3])
「フリードリヒは『Praevenire quam praeveniri(先を越されるよりも先を越す)』の原則を適用することになる。具体的には、まずはオーストリアを攻撃することにした。前回の戦争を考えると、オーストリアこそが今回の反プロイセン同盟の弱点だとフリードリヒは考えたからだ。オーストリア軍をたたきつぶしてやろう。そうしたら、オーストリアの同盟諸国は戦争をはじめることをためらうだろう。
 ところが、物事はフリードリヒが考えたシナリオどおりには進まなかった。1756年10月1日、ロボジッツの戦いでフリードリヒはオーストリア軍に勝ったが、たたきつぶすことはできなかった。悔しがったフリードリヒは『連中は以前とは違う』と叫んだ。それもそのはず、マリア=テレジアが意図した改革は軍隊にもおよんでおり、この方面では司令官のレオポルト・フォン・ダウン伯爵の助けが大きかった。したがってフリードリヒは、決定的な勝利を早期に実現するために作戦を練りなおさねばならなくなった。」(アレクシス・ブレゼ/ヴァンサン・トレモレ・ヴィレール編『世界史を作ったライバルたち 下』「第11章 フリードリヒ二世とマリア=テレジア」原書房/2019)

(資料[4])
「フリードリヒは、露国はエリザヴェータ女帝(1709〜62)の病気及び気候の関係に依り、迅速に兵を進め得ざるべしと判断し、主力軍10万をザクセンに集結して、所謂中央陣を以て墺仏両軍の進攻に備へんと欲せり。勇将ウインターフェルド(ハンス・カール・フォン・ヴィンターフェルト/1704〜57)及びシュヴェリーン(クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン/1684〜1757)は交々ベーメン進入の意見を具申せるも、フリードリヒは過去の経験に基き之を容れず。然るにハノーファーの兵備は予想に比し良好にして、而して仏国の作戦兵力は、墺国の希望せるが如く増加せられざるの報を得しに依り、ベーメンに向ひ攻勢を取るに決し、『分散宿営せる敵を奇襲して之を中央に圧迫し、且各個に撃破するの機会を求め、為し得れば大会戦に依り全戦争の運命を決す』べき方針の下に、主力軍11万7千を、当時に於ける統帥の原則たる先づ作戦準備の為集結を行ふの方法を行ふことなくして、4集団に分ち、冬営せる態勢より直ちに4月下旬国境を超え、一斉にベーメンに進入せしめ、集心的にプラーグに向ひ前進せり。此の如き行動は、当時の常則たる倉庫を以てする給養の実施を困難とするを以て、輜重を携行すると共に、迅速なる行動に依り敵の倉庫を奪はんとし、克く之に成功せり。是フリードリヒの卓見なり。墺軍は仏軍の近接を待ちてザクセンに進入すべく国境に近く広大なる地域に分散宿営しありし為、プロイセン軍の急襲作戦は能く状況に適合し、各方面共墺軍を駆逐しつつ5月初プラーグ郊外に達せり。」(四手井綱正『戦争史概観』岩波書店/昭和18年10月)

(資料[5])
「ウィーンに在りし墺軍総帥カール親王は、4月末プラーグに着し、退却し来れる墺軍主力を掌握し、且新たにダウン元帥兵団来援するの報あり。フリードリヒは其の到着に先だちプラーグを攻略せんとし、5月6日主力約6万4千を以て、プラーグ東方に陣地を占領せる墺軍約7万に対し、之を平地に誘出して攻撃すべく機動を試みしが、結局困難なる地形に於ける正面戦闘となり、激戦の後、墺軍をプラーグに撃退し得たるも、シュヴェリーン元帥以下精兵1万8千を失へり。翌日プラーグに勧降使を送れるも、尚カール親王以下4万の兵ありて応ぜず、依ってフリードリヒは糧食の欠乏により開城の止むを得ざるに至らしめんとし、同地を攻囲せり。然るに6月に入り、ダウンは6万を率ゐて近接し来れるを以て、之に一撃を加へて動作の自由を獲得せんと欲し、依然プラーグの攻囲を継続すると共に、一部たる約3万3千を提げ、6月18日コーリン附近に於て敢然ダウンを攻撃せり。此の攻撃に方り、フリードリヒは墺軍陣地の側面を攻撃すべく機動を行ひしが、此の間に墺軍亦正面を変換せる為、正面攻撃となり、攻撃挫折し、夜に入り退却するの已むなきに至れり。
 墺軍に一撃を与へ、墺国政府の継戦意志を挫折せしめんとするフリードリヒの希望は、此の敗戦の為水泡に帰し、自ら『過去の成功が過大の自信を植ゑつけ、不十分なる兵力を以て攻撃して敗戦せり』との旨述懐せり。
 フリードリヒはプラーグの包囲を解きて退却に就き、尚暫くベーメン北部に留まらんと欲せしも、墺軍の機動と小戦とに依りバウチェン附近に後退するの已むなき情況となれり。」(四手井綱正『戦争史概観』岩波書店/昭和18年10月)
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