mixiユーザー(id:33229387)

2019年11月01日16:10

164 view

11月1日 [雑考]「シュレージェン・ウォーズー泣き虫大王の七年戦争

フリードリヒ大王「それでいいのか、お前らそれでも男か!!悔しくないのか!!!今からお前達を殴る!殴られた痛みなど三日で消える、だがな、今日の悔しさだけは絶対に忘れるなよ!!!」(コリンの敗戦[1757年6月]で大王が部下に云ったとか云わなかったとか→嘘です)
(元ネタ)

 先週は「宅建士」(以前は「宅地建物取引主任者」であったものが名称が変わった)の資格更新のための法定講習があったりなどして少々忙しかった。
 しかし、10年以上前に取得した資格なのだが、これまで自社物件を除いては一件の土地も住宅も、「売買」したり「仲介」したりしたことはなく、試験で暗記した法令知識なども、あらかたきれいさっぱり忘失してしまっているので、講義を聴いてもチンプカンプン。さらに小グループに分かれてのディスカッションなどでは、意見を求められても頭を掻きながら「不勉強ですいません」を連発するばかりで……何とも辛い一日でした(;^_^A
 
 あだしごとはさておき
 
 引きつづき18世紀ドイツはプロイセン王国のフリードリヒ二世(大王。在位1740〜86)の行なった戦争について昭和陸軍の鬼才・石原莞爾(中将。1889-1949)のものした『戦争史大観』(1941)と、関東軍総参謀副長として赴任する途中、台北で飛行機事故によって非業の死を遂げた四手井綱正(中将。1895〜1945)の『戦争史概観』(1943)を対比しながら読み進めている。
 石原の戦争観の特色を二点に挙げるとすれば、第一は、19世紀初期のプロイセンの軍事思想家クラウゼヴィッツが、その著『戦争論』(1832)で示した「絶対的戦争」と「現実の戦争」という概念を、それぞれ「殲滅戦争」(「その最高にして唯一の目的に至る手段が敵戦闘力の粉砕、すなわち戦闘(会戦)にある戦争」)と「消耗戦争」(「敵の完全な打倒を期待するよりも、あらゆる種類の打撃と損傷、破壊により、最終的に勝者の条件を受諾させる程度に敵をすり減らし、消耗させることを目的とする戦争」)の二種類に類型化した、ドイツ第二帝政期(1870〜1918)の軍事史家ハンス・デルブリュックの所説を援用して、戦争を「決戦戦争(decisive war)」と「持久戦争(protracted war)」の二形態に大別し、戦争の歴史はこの二形態が交互に現れて、進歩発展をたどってきたとする弁証法的戦争観に求められる。
 そして第二は、石原の想定では30年後(1970年頃)に勃発するであろう「世界最終戦争」で、東亜連盟の盟主である日本と西欧文明の覇者であるアメリカとの間で「最も真面目最も真剣」な、20年にもおよぶ決戦戦争が行なわれ、その勝者によって人類の共通の憧れである世界の政治的統一は実現され、永遠の平和が齎されるという、彼の信仰した日蓮聖人の『撰時抄』中の文言からインスピレーションをうけた(「殊に日蓮聖人の『前代未聞の大闘諍一閻浮提に起るべし。』は、私の軍事研究に不動の目標を与えた」)という終末論的戦争観である。
 その石原は、『戦争史大観』や、その前年(1940)に行われた講演をもとにした『世界最終戦争論』において、フリードリヒ大王を、典型的な「持久戦争」の「機動主義」(敵戦闘力の「撃滅」を目的とはせず、機動や小戦を繰返して敵を圧迫したり、要塞などの拠点や倉庫といった補給源の占領、後方連絡線を脅かすこと等々によって、敵の継戦意志を挫折させ「撃退」することを主眼とする)の「名手」であり、「軍神」であったと称揚している。
 しかし、抑々石原は「決戦戦争」を「活潑猛烈であり、野性的、陽性」(『大観』)「男性的で力強く、太く、短くなる……陽性の戦争」(『最終戦争論』)とする一方で、「持久戦争」を「活気を失い、女性的、陰性」(『大観』)「細く、長く、女性的に、即ち陰性の戦争」(『最終戦争論』)と表現していることから窺われるように、「決戦戦争」こそが戦争のあるべき姿と見做していた(石原曰く「戦争本来の真面目は武力を以て敵を徹底的に圧倒してその意志を屈伏せしむる決戦戦争にある」。クラウゼヴィッツも「流血を伴う決戦によって危機を解決すること、換言すれば敵戦闘力の撃滅を旨とする努力を、戦争の嫡出児と認めないわけにはいかない。」と述べている)。
 石原にしてみればフリードリヒの行なった「持久戦争」などは、およそ「相手を完全に打倒しておよそ爾後の抵抗をまったく不可能ならしめる」という「戦争の純粋な概念」から乖離した「変態的」なものとなり、このような抜き難い先入観を以てしてはフリードリヒの戦争が「持久戦争」として現象されざるを得なかったかを、政治的・経済的・社会的・技術的な要因にたいする広範な客観的分析を通して解明し、その歴史的な意義を正当に評価するという、価値中立的で科学的な「軍事史」を記述しようという姿勢には乏しかった言わざるを得ない。
 なるほど石原の『大観』にも、「持久戦争」を招来した社会的原因(その中で最たるものは、フリードリヒなどが依拠した兵力は、ナポレオン戦争時代の戦闘についてはズブの素人ではあるが、愛国心に富んで士気は高く、ほとんど無尽蔵に徴兵できる「国民兵」ではなく、戦闘のプロで精練されてはいるが、忠誠心も士気も低い「傭兵」が高い比率を占めていたこと。このことから、将帥は戦力維持の観点から会戦をなるべく回避しようという傾向となった)への瞥見もある。しかし、それらはおしなべて戦争の進歩を阻害した要因であり、フランス革命を転機としてナポレオンが行なった「国民的殲滅戦争」こそが、フリードリヒ大王時代の諸々の「旧制度(アンシャン・レジーム)」の制約を清算して、戦争がその本来あるべき姿を現したものと観念される。石原の戦争観を突き詰めれば、「文明の進歩が行きつく先は、殲滅戦争という野蛮化となる」という逆説になるのであり、フリードリヒの用いた「持久戦争」の「機動主義」などという、会戦を回避しつつ兵力を節約するようなケチくさい戦い方は、当然に克服されるべきものでしかなかったのである。
 石原が上記のような価値判断を含んだ「フリードリヒ戦史」をえがいたのと対照的に、四手井の『戦争史概観』は、真に「軍事史」の名に値するものと評してもよい。
 四手井によれば、フリードリヒは当初(1740年12月)、オーストリア側の戦備の手薄なのに乗じて23,000の兵を率いてシュレージェンを電撃的に占領し(オーストリアは当時、オスマン・トルコに備えるべくハンガリーに主力43,000を、対フランス前線のイタリアに16,000、フランドルに12,000を分散して貼り付けており、ドイツには5、6連隊の兵力しかなく、フリードリヒの進攻の報をうけてシュレージェンに急行したブラウン将軍率いる兵団は兵力わずか3,000[後に援軍を加えて8,000]にすぎなかった)、さらに会戦をなるべく回避して(それでもオーストリア側から仕掛けられてモルヴィッツ[1741年4月]やコトゥジッツ[1742年5月]などの会戦は生起したが)、戦闘による兵力損耗を防ぐ一方で、イギリスに斡旋を要請して講和による外交的解決を求めるという「機動主義」を採用していた(資料[1]参照)。
 しかし、戦後にフリードリヒは、第一次(1740年12月〜42年6月)と第二次(1744年8月〜45年12月)と予想外に長引いてしまった対オーストリア「シュレージェン戦争」の経験の総括から、慧眼にも会戦の重要性を認識するに至り(外交的解決を迅速且有利に進めるためにも会戦の勝利が不可欠である)、機動主義から会戦主義へと傾斜し(「戦争は短く且活潑に行はざるべからず。持久戦争は我が軍の優秀なる軍紀を破壊し、国土を破壊せしめ、且資源を消耗す。されば、プロイセン軍の指揮者たる者は宜しく、極めて慎重なると同時に断乎決戦を求めざるべからず」フリードリヒ『戦争の一般原則』1746)、思想的には一時「殲滅戦略」にかぎりなく接近した(資料[2]参照)。
 第二次シュレージェン戦争終結から10年後に起った「七年戦争(第三次シュレージェン戦争/1756〜1763)」では、人口500万で、資源も貧弱なプロイセンの実力で「老いたりとは云へ大国たる墺国(オーストリア)」を向うに回して(さらにフランス・ロシア・スウェーデンなどもオーストリアに加勢しており、人口比では「500万対9,000万の戦い」と言われた)、緒戦ではフリードリヒは果敢に攻勢に打って出たものの、劣勢の兵力で会戦を仕掛けた「コリンの戦い(1757年6月)」で大敗を喫し(フリードリヒ曰く「過去の成功が過大の自信を植ゑつけ、不十分なる兵力を以て攻撃して敗戦せり」)、その後、「ロスバッハ(1757年11月)」「ロイテン(同年12月)」の両会戦で勝利したものの、一向に戦勢を挽回するに至らなかったことから、「会戦主義」の効用に疑問を持つようになった。
 1759年秋には、「もちろん、戦わねばならない状況は存在する。しかし、それは得るものよりも失うものが少ない場合か、敵が野営中ないし行軍中で不警戒な場合、あるいは決定的な一撃によって講和を強制できる場合のみに限られる。以下のことは明らかに正しい。すなわち、安易に戦闘に突入する将軍達は、他になすべきことを知らないがゆえに、この方策に訴えるのである。それは彼らの功績ではなく、むしろ、才能の欠如と見なされよう」と、みずからのこれまでの「軽挙暴進」を反省する一文を残している。
 そして、麾下の指揮官たちには、「敵の征服のみを目的として戦闘を行ってはならない。戦闘を決断しなければ阻止される計画を遂行するために、その実行に務めよ」(1775年『戦役計画』)と、会戦は戦争目的を達成するための唯一無二の手段ではなく、あくまでも作戦(計画)を進捗させるための一手段であり、その計画を破綻から防ぐために他に方法がないときに已むなく採られる手段とするべしと、戦争指導方針を「消耗戦略」のそれに再び修正したのである。
 四手井は、フリードリヒは決勝的会戦により戦争を迅速且有利に終結させたいという願望に突き動かされて、「機動主義より会戦主義に発展せし端緒」を覗かせたものの、現実の戦況に迫られて「消耗戦略の範囲より出」られなかったと論じている。
 しかし、四手井はそれを「誤り」とも「後退」ともしてはいない。(石原にはそういう価値判断があるが)
 フリードリヒが「七年戦争」において示した、会戦での勝利を求める「武威の示現」と、会戦を回避しての「武力保存」との関係を調節する絶妙なバランス感覚―好機が到来したとき、又は会戦やむなしと決したときは敢然と戦い、プロイセンの戦力が損耗低下してまともに会戦に堪えない時は、つとめて「会戦」を回避し、逆にロシアがプロイセン陣営に鞍替えしてその有力な援軍が望める(兵力的にオーストリア側を圧倒できる)時には、機動により劣勢な敵を圧迫して追い払うといった無難な方法を選んで無用な流血を避けるなど―「現実を正しく認識し、実情に即して作戦を指導」しえた点こそに、フリードリヒの名将たる所以を見ている。こういう「会戦と機動とを移動する戦略(「『大胆さの法則』と『軍事力の経済法則』を両極とする戦略」)」を巧みに使い分けたフリードリヒ像は、クラウゼヴィッツの所論にも見える(資料[4])。フリードリヒが何度も苦境に立たされながらも、7年にも亙って粘り強く抗戦し、ついに戦いに倦んだオーストリアをして、プロイセンにシュレージェンの領有を正式に認める講和に応じさせることができたのは、ひとえに彼がひたすらに「会戦」を求めることをあきらめ、「機動」も戦争の有効な手段として認めることができたことに負っているものであろう。

(資料[1])
「両戦役(第一次・第二次シュレージェン戦争)を通じ、フリードリヒは外交情勢に基き作戦を計画し、且勉めて外交に依り局面の打開及び事態の解決を図り、武力を使用するに方りても土地の占有及び威嚇を主とし、已むを得ざる場合の外、会戦を避け、又使用せる兵力は常にプロイセン全兵力の一部に止まれり。又ホーエンフリートベルク(1745年6月)以外の会戦は、何れも敵情に強ひられたるものにして、唯一計画せる同会戦と雖も、窮境打開の策として決心せしものなり。而して会戦後も追撃に依り戦果を収めんとすることなく、外交に依り勝利を完ふせんとせり。是既述の如く、当時に於ける戦争指導法の特色なり。」(四手井綱正『戦争史概観』岩波書店/昭和18年10月)

(資料[2])
「然れども戦争間外交情勢を有利に導きしものは会戦の勝利にして、此の種戦争指導法に於ても、会戦の必要なることを現実に示せり。フリードリヒも亦、両戦役(第一次・第二次シュレージェン戦争)の経験に依り之を痛感し、彼の用兵が其の当時の風潮たりし機動主義より会戦主義に発展せし端緒此処に始まれり……当時は既述の如き消耗戦略の時代なりしが、大王は第一、第二シュレジェン戦争の経験に依り、次第に会戦の価値を認識せり。是蓋し当然の帰結にして、元来戦争は国是貫徹の為武力に訴ふるの必要なるに至り生起するものなれば、仮令消耗戦略に従ふと雖も、其の有する武力の威力を現実に敵に示すことの必要なるや、自明の理なり。然れども、当時の風潮に坐して之に堕せず、克く会戦の価値を認識せるは慧眼と云ふべし。」(四手井前掲書)

(資料[3])
「然れども、プロイセンの実力と、老いたりとは云へ大国たる墺国を敵とせることとは、消耗戦略より脱する能はず、会戦を重視し之に依りて戦争を有利に指導すべく努めつつも、純然たる殲滅戦略に進展し得ざりき。『戦争の大原理』にも『指揮官は緊要なる目的の下に於てのみ会戦を行ふべきものなり』と論じ、其の思想は会戦を以て作戦を進捗せしむる為の手段とし、明かに消耗戦略の範囲より出でず……
……大王は七年戦争に於て、当時の慣習に比し甚だ多くの会戦を行ひ、克くプロイセンの武威を示せしが、之に伴ふ戦力の消耗も亦大なりき。会戦は武威を示すこと最も明確なると共に武力を消耗す。故に当時に於けるが如く、消耗戦略を以て行ふ戦争の指導に方りては、武威の示現と武力保存との関係を如何に調節しつつ武力の価値を最大に発揚すべきやは最も重要なる問題なり。大王は会戦の希望に燃えつつも、プロイセン軍の戦力が消耗低下して、会戦を不利とする時期に於ては勉めて会戦を節約し、特に露軍の協力に依り、絶対優勢を占むるに至るや、無用の戦力消耗を避けつつ機動に依り墺軍をシュレジェンより掃蕩せんとせり。是れ現実を正しく認識し、実情に即して作戦を指導せるものにして、大王の実際的名将たる所以を窺ひ得べし。」(四手井前掲書)

(資料[4])
「フリードリヒ大王は一小国家の元首にすぎなかった。当時のプロイセンは、大体の国情について言えば、諸他の弱小国家と異なるところがなく、ただ若干の行政部門においてこれらの国家に立ちまさっているだけであった。それだから彼はアレクサンドロス大王のような君主になるわけにいかないし、またカルル12世の真似でもしたら恐らくカルルと同じく痛ましい最後を遂げたであろう。そういう訳でフリードリヒの戦争指導には、控制された力がいかなる場合にも均衡を保って自由にはたらいていた。もちろんこの力は、決して控制され放しではなく、いったん事態が急迫を告げれば直ちに発動して驚くべき威力を示したが、しかし緊迫状態が一過すれば徐々に平静に復して、きめの細かい政治的活動を営むというふうであった。彼は、未だ曽て虚栄心や名誉心或は復讐心に駆られて、この本道から逸脱するようなことがなかった。そしてこれこそ彼が闘争に有終の美を冠した唯一の道であった。」(クラウゼヴィッツ『戦争論』(上)篠田英雄訳/岩波文庫/1992)
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年11月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930