ホーム > mixiユーザー(id:33229387) > mixiユーザーの日記一覧 > 10月22日 [雑考]大王☆歌劇レヴュースタァライト

mixiユーザー(id:33229387)

2019年10月22日11:57

16 view

10月22日 [雑考]大王☆歌劇レヴュースタァライト

「ハプスブルク家と戦わなければ生き残れない!」(フリードリヒ二世)

 プロイセン王国のフリードリヒ2世(大王。在位1740〜86)といえば、即位したその年に、神聖ローマ皇帝であったオーストリア・ハプスブルク家のカール6世(在位1711〜40)が歿し、男系皇統が途絶え、その娘でロートリンゲン公フランツ=シュテファン(1708〜65)に嫁いでいた娘のマリア=テレジア(1717〜80)が、弱冠23歳でオーストリアの王位に即くや、正式な宣戦布告もなしにオーストリア領シュレージェンに出兵し、ほとんど無血にここを占領して、以後8年間におよぶ、イギリス・フランス・スペイン・バイエルン・ザクセンなどを巻き込んだ「オーストリア継承戦争」の火蓋をきったことで有名である。
 プロイセンはシュレージェンにある3公国の継承権があり、またフリードリヒの父王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(在位1713〜40)が、生前の皇帝カール6世がマリア=テレジアのオーストリア家領(オーストリア世襲領にくわえ、ボヘミア・ハンガリーの両王国、モラヴィア、ティロル等の諸領邦)の一括相続のために発した“国事詔勅(プラグマティッシェ・ザンクツィオン)”を承認する見返りとして、「ベルク公国(首都はデュッセルドルフ)またはこれと同等の代替領」を譲与するというベルリン条約(1713)の付帯議定書の条項を反故にされた(1738)ことへの遺恨もあった。何よりも当時、1737〜39年の対トルコ戦争が終結したばかりで、シュレージェンのオーストリア軍は出払っていて無防備な状態にあり、それに引き換え、フリードリヒの手許には、「兵隊王」と揶揄されるほど大軍隊建設にのめり込んだ父王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世の形見である精強な約8万のプロイセン常備軍があった(プロイセンはヨーロッパの国では人口は13番目、国土面積は10番目、陸軍の規模は4番目)。
 フリードリヒが、オーストリアの弱みにつけ込んで、人口稠密で、鉱物資源に富み、オーストリア領内で繊維工業がもっとも発達していたシュレージェンをまんまと掠め取ったことは、即位の前年(1739)に『反マキアヴェリ論』を出版し、啓蒙思想の人道主義の見地から、マキアヴェリの『君主論』に現われた権力政治を徹底的に指弾した彼にして、現実政治に携わるや、このように没義道な行動に出たことは後世の史家からも非難されている。たといプロテスタント人口の多かったシュレージェンが、厳格なカトリックを奉じるオーストリアから、寛容なプロテスタントのプロイセンの版図に組みこまれたことで、信教の自由を享受したからといってけっして免罪されるものではなかったのである(資料[1]参照)。
 しかし、『反マキアヴェリ論』のフリードリヒがにわかに変節したとは言い切れない。それは『フリードリヒ大王 祖国と寛容』(山川出版社/2016)の著者である屋敷二郎氏も指摘していることだが、『反マキアヴェリ論』第26章「外交交渉ならびに戦争の正当原因」で展開した、彼の「正戦論」にその鍵がある(資料[2]参照)。
 フリードリヒはまず、外来急迫の侵害にたいする自衛権の発動たる「防禦的戦争」は、「最も正当なる戦争」であることに異論はないという。これは「国際法の父」と呼ばれた17世紀のオランダの法学者フーゴー・グロティウス(1583-1645)の『戦争と平和の法』(1625)でも、「自己保存」のために、武力を行使することは、「自然」の権利(自然権)であるとされていたのに符合している。しかし、受動的な「専守防衛」だけでなく、「攻撃的戦争」であっても、場合によっては「正当」と見做されうる戦争の類型が二つ存在するという。
 一つは「継承権」などが絡んだ国家間の係争において、「権利の主張を貫徹」するための戦争である。神聖ローマ帝国の権威が三十年戦争(1618〜48)以後に有名無実なものとなり、それに代って台頭したのがドイツ各地に割拠した、オーストリア、プロイセン、ザクセン、バイエルン、ハノーファーといった有力な帝国等族=領邦国家であり、かれらの間の争議は、それを審判する法廷が存在しないために(自力では存立できないような弱小の領邦にとっては帝国最高法院や帝国宮内法院といった司法機関は頼みの綱とされていたが)、実力によって決着をつけなくてはならない、という時代背景がそこにはあった。
 つまり、「国家またはその市民は、他の国家またはその市民に対して、裁判によらず自己の権利を追求してはならない」のが大原則ではあるのだが、例外として「権利の実現のための司法的手段が欠落している(裁判権を有するものにだれも従わない)」ばあいには、そこにあるのは「国家や裁判が確立される以前の状態」=「自然状態」であり、そこでは「各国家が各国家の権利の執行」することになる、というのだ。
 グロティウスの議論に従えば、その「権利の執行」とは、財産の守り、回復するため(自己保全)、債権―債務関係にあって債務が履行されない場合にそれを回収すること(自力救済)も含まれ、それらの目的であっても実力行使が容認されるという。フリードリヒの論理では、カール六世が、ベルリン条約に反して、一度はプロイセンに譲渡するとしたベルク公国を、頭越しにプファルツ=ズルツバハ家に与えてしまったからには、プロイセンはベルク公国と「同等の代替領」を、現オーストリア家領より提供をうける「権利」があり、それが履行されないかぎりは、マリア・テレジアのオーストリア領相続を求める「国事詔勅」を承認する「義務」もない。そして、シュレージェンの占領は、いわばプロイセンがオーストリアにたいして持っている債権の回収行為であり、正当なのだ、と。
 フリードリヒにとっての二つ目の戦争の正当要因は「強大にして驕慢なる国が力を恃んで自ら恣にし、荒廃破壊を以て世界を脅威する場合」で、その際には、脅威にさらされている国家は、独力または他国と同盟して、予防戦争を行う権利があるとするものである。この場合の「強大国の脅威」とは客観的・現実的な脅威から主観的・確率的な憶測まで幅があるが、当時人口250万のプロイセンにとって、同じ神聖ローマ帝国を構成する有力領邦国家といっても、オーストリアは自国の4倍の人口を擁する突出した勢力である。そこでプロイセンが、150万の人口をもつシュレージェンを併合すれば、人口の差は4倍から一気に2倍ほどに縮まる。フリードリヒから見てドイツの平和保持を不安定なものとしているオートリア一強の「不均衡」はここに是正され、より望ましい「均衡状態」に近づくことになる。オーストリアをこのまま放任しておいて、「すべてが絶望的になって、宣戦布告が完全な圧伏と没落の一時的な延期にすぎないような時期まで待つ」ような愚を犯してはならない。「オリーブの樹の枝[平和]と月桂樹の木の枝[勝利]のうちから選ばねばならないのなら、侵略戦争に訴える」ほうが良いに決まっている。そして、「斯かる必要に迫られたる戦争は、姑息の平和よりも害が少ないのである」(資料[3]参照)と。フリードリヒは、後年の別の著作『現代史』においても、ヨーロッパの主権国家間に勢力の均衡をもたらすための戦争で流された血は無駄なものではなく、「安定静謐を買ふの犠牲」とも述べている(資料[4]参照)。
 「正しい勢力均衡」が「平和」を維持するとは、1713年7月、スペイン継承戦争(1701〜14。スペインのハプスブルク王家の断絶によって、その後継王位をめぐってイギリス、フランスの対抗を主軸にして行われた国際戦争)の講和条約として締結されたユトレヒト条約で宣言された(「正しい勢力均衡によってキリスト教世界の平和と安寧を確保しかつ安定させるために……それは永続的な一般的協定と相互の友好のための最良かつ最も確固たる基礎である」)。これによってヨーロッパ諸国は「勢力均衡を維持することが権利であり義務である」とされたのだが、フリードリヒの主張は、権力政治のそれではなく、対トルコ戦争で消耗しきっているオーストリアの勢力をいま殺がずして、ドイツ領邦間の「不均衡」を放置しておくことは、「均衡を求める権利」をみずから放棄し、「均衡を構築して平和を維持する義務」を尽さないものだ、という論理に従っていたとも見える。
 このように、自然法学的「正戦」論と、平和の基礎とされる「勢力均衡」論の文脈から読み解くならば、フリードリヒ二世の「シュレージェン侵攻」は、単純に道義的に排斥されるものではありえなかったのである。

(資料[1])
「シレジアがフリードリヒ二世の領地となるや、文明的政治の恩沢に浴するに至り人民は為に大に繁栄を増進せり。殊に普王の善政中特筆すべきは宗教の自由を公認して人民に一大安心を与へることにあり、現今シレジアが普国の領地中に在って最も忠順にして、人民の状態亦日に繁栄を加ふるを観るに於て其領有当初に於ける大王の方針の宜しきを得たるに因ること多きを思はずんばあるべからず。然れども此結果の美を以て、最初領有の方法に関する無道の行為を抹殺すべからざるは勿論なり。フリードリヒが暴力を以てシレジアを侵略せしは大王生涯中の一大瑕瑾にして又一大失策なり。如何となれば多年の戦争と国難は主としてこの無謀なる強奪に帰因すればなり。」(横井時雄『欧州近世史論』警醒社/明治43年)

(資料[2])
「防禦的戦争は正しく最も正当なる戦争である。然し戦争には又国際紛議の結果、君主は己の権利を主張貫徹する為、自ら進んで干戈を提げ、威力を以て相互の主張を決定せざるを得ざるより生ずる場合もある。―君主は又国家将来の安危を適当に考量したる上、正当防禦の為、自ら進んで戦争に訴へざるを得ざるを感ずる場合もある。斯かる目的を以て行ふ戦争は厳正な意味より云はゞ攻撃的戦争であるが、而も尚其れは正当な戦争である。強大にして驕慢なる国が力を恃んで自ら恣にし、荒廃破壊を以て世界を脅威せんとする場合には、普通の警戒手段として早く我が力に及ぶ時に及んで溝渠堤防を築設して洪水氾濫の勢を殺ぎ、損害を未然に防止するの策を取らねばならぬ。」(フレデリック大王『君主経国策批判』「第二十六章 国際商議及び所謂開戦理由に就いて」興亡史論刊行会/大正8[1919]年)

(資料[3])
「……簒奪者の暴行を抗拒し、自家の合法的権利を保持し、人類の自由を保存するの純目的を以て開始せられ、何等の私心をも交へざる所の戦争は是れ総て正義の理に合ふ正当の戦争であって、斯かる戦争に従事する君主に対し、伏屍流血の挙に出でたりとの故を以て之を非議するは全く謂はれない事である。必至が君主をして戦争に訴へしむる場合あるは欧州今日の情形である。而して斯かる必要に迫られたる戦争は、姑息の平和よりも害が少ないのである。」(同上)

(資料[4])
「戦争に由って国家の境域を長久に画定し、欧州の主権者相互間に大必要なる勢力の均衡を確立するの功あることを得るに於ては此の濺ぎ流されし鮮血も空しからずして此れ欧州の安定静謐を買ふの犠牲とも見らるべし。」(フリードリヒ『現代史』序文/1775年)
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを投稿する