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2019年05月19日18:08

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5月19日 読書ノート『ジューコフ将軍回想録』他

「この動画はテンポがよくないのが『残念』」


 近ごろは『ジューコフ元帥回想録―革命・大戦・平和』(朝日新聞社/1971)とジェフリー・ロバーツ『スターリンの将軍 ジューコフ』(松島芳彦訳/白水社/2013)を舌なめずりしつつ併読する毎日。
 ジューコフが1939(昭和14)年7月3日、モンゴル人民共和国(外モンゴル。現在のモンゴル国)駐屯の赤軍第57特別軍団の司令官として、ハルハ河(日本側が主張する外モンゴルと「満州国」の国境)を未明に渡河進攻してきた日本の関東軍第23師団(長=小松原道太郎中将)主力に対して取った「装甲部隊単独」(実際には外モンゴル領にあった重砲4門とハルハ河右[東]岸に進出していた重砲4門が掩護し、飛行隊の協同もあったが)の、無秩序な「兵力の逐次投入」による反攻作戦は、その損害の"目のくらむような"甚大さ(内務人民委員部[NKVD]特別部が7月19日に国防人民委員[国防相]ヴォロシーロフに宛てて送った報告によれば、「7月1日から12日までの戦闘で第57特別狙撃軍団は保有した戦車のうち57両が破壊され、74両が故障状態になった。装甲車も67両が破壊され、101両が故障状態になった」とある)故に、後世の史家から「稚拙な用兵」と非議されてきた。
 しかし、37ミリ速射砲や75ミリ野砲などの対戦車火器、はたまた火炎瓶・対戦車爆雷を以てする歩兵の肉攻で、何十両となく炎上破壊されながらも、次から次へと新手を繰り出してくる装甲車両の突進をまえに、日本軍歩兵部隊の進攻は頓挫させられ、その日の夕刻には右岸への撤収(「撤退」を許さないの本軍の用語では「転進」)を余儀なくされたのも動かし難い事実である。
 スペイン内戦(1936年7月〜39年4月)中に、ソ連から共和派の人民戦線政府援助に送られた義勇戦車兵部隊の体験から、ソ軍戦車の薄い装甲(BT-5快速戦車で13ミリ、T-26軽戦車で15ミリ)は、37ミリ以上の口径の火砲の射弾には抗堪できず、味方砲兵の支援を受けないでの、外モンゴルの草原地帯のような身を隠す遮蔽物のない戦場での行動は、敵の対戦車火器の好餌となることは明らかであり、また、歩兵を随伴していない戦車は、その死角から忍び寄っては火炎瓶を投擲してくる肉攻歩兵を防ぐ手だてがない。
 ジューコフも、日本軍渡河部隊への反攻は、ハルハ河から約130キロ離れた外モンゴルのタムスク(タムツァグ・ブラーク)から呼び寄せ、戦場へ移動中であった第24自動車化狙撃(歩兵)連隊と増強砲兵の到着を待って、「歩・戦・砲」の諸兵協同(Combined arms)による(ソ連軍教範はそれを推奨している)のが定石であるとは重々承知していた(ジューコフの言葉として「戦闘の大小にかかわらず勝利するためには、戦術面でも戦闘陣形においても全ての兵科の武器が協力して威力を発揮しなければならない」[「Reminiscences and Reflections]1941]とある)。
 しかし、ジューコフはこの時、敢えてそれを取らなかった。
 その理由として、牛島康允の『ノモンハン全戦史』は、歩兵力に乏しいソ軍は、きっと歩・砲兵部隊の戦場到着を待って反撃に出てくるであろうと予期し、対戦車防御態勢を整えていない日本軍に、装甲部隊を単独で打突けることはそれだけで「奇襲」の効果を生む、当然、こちらが蒙る損害は甚大となるだろうが、それは「奇襲」の効果によって相殺される、とジューコフが考えたからだとしている。
 この説は「ジューコフ回想録」の記述から容易に裏付けられる(資料[1]参照)が、あたしは、ジューコフが日本軍渡河部隊について、その兵力の正確な情報が獲られていない状況で、タムスクから押っ取り刀で駆けつけた装甲部隊を逐次投入してまで反攻を急がせた一因には、彼がこの戦いを「遭遇戦(meeting engagement)」と見做していたからではないかと推測している。「遭遇戦」の要訣は、たとい状況不明であろうとも(状況不明は遭遇戦の常態である)、「行軍部署より迅速に展開し、随時随所に敵に迅速なる攻撃を加うる」にある。敵の機先を制することにより「敵をして我に追随するの止む無き」に至らしめる(主導権の確保)ことにある―敵情が明確となるまで手出しは差し控える、主力部隊が勢揃いするまで敵の前進を手を拱いて座視傍観する―などは「遅疑逡巡」であり、兵家の最も忌むべき態度だ(資料[2]参照)。「前衛」だけでも積極果敢に攻勢に打って出る。我が「主力」が到着して展開を完了させるまでの時間的猶予を獲得するため、あらゆる方向から間断なく打撃を加えて、敵をしてそれへの対応で手一杯にさせて、受動の地位に陥らせ、その展開を妨げる(資料[3]参照)。
 戦場に先乗りしたヤコブレフ少将麾下の第11戦車旅団の戦闘車両を擦りつぶしてまで実行されたジューコフの攻勢は、日本軍歩兵部隊を対戦車戦闘のために釘付けにし、正午頃には第24自動車化連隊、午後3時頃には第7機械化旅団がそれぞれ到着し、日本軍を半円形に包囲することに成功した。補給路をハルハ河に渡したたった1本の軍橋に托していた日本軍部隊は、午後に入って砲弾・水・食料が枯渇し、じりじりと押し戻されはじめ、午後3時半ごろには日本軍の先鋒部隊の一角であった歩兵第72連隊は1キロほども後退していた。第23師団司令部が、関東軍参謀の勧告をうけてハルハ河右岸への「転進」命令を隷下部隊に正式に下達したのが午後4時である。
 ジューコフが装甲部隊の損耗を代償にハルハ河左岸から日本軍を駆逐した「バヤン・ツァガーン山付近の"遭遇戦"」は、シーシキンが描いたような「日本軍主力を包囲潰滅させた」ものではなかった(資料[4]参照―スチュワート・D・ゴールドマン『ノモンハン1939 第二次世界大戦の知られざる始点』にも「7月3日の夜にジューコフが考えていたのは敵を撃退することであり、包囲撃滅することではなかった。」と述べている)。しかし、「ハルハ河右岸に進攻し、ソ蒙軍を捕捉殲滅」せんと企図していた日本軍は、繰り返されるソ軍装甲部隊への対応で手一杯で、さしたる収穫もないままに撤収せざるをえなかった。ソ軍が右岸に引き揚げる日本軍部隊を背後から急追しなかったのは、ソ軍装甲部隊が、損傷車両の回収、戦死傷搭乗員の捜索、指揮組織の損害などのため忙殺されていたこともあるが、牛島康允『ノモンハン全戦史』が皮肉たっぷりな、「師団規模の大兵力を渡河進出させておいて、その夜目的も達成せずそのまま撤退するなどという馬鹿げたことは常識を超えるものであり、ソ連側も夢にも思わなかった」という推論もあながち的外れとは言えまい。
 
(資料[1])
「午前9時ごろ、第11戦車旅団の前衛大隊先頭部隊が戦闘地区へ接近しはじめた。
敵はバイン・ツァガン山地に兵1万余を集結し、ソ連軍は兵1,000余り集結できた。日本軍にはまた約100門の砲と60門の対戦車砲があった。一方わが方にはハルハ川東岸から支援している砲を含み、大砲は50余門があった。
 しかしわが軍の戦列には約150台の戦車をもつ英雄的な第11戦車旅団と154台の装甲自動車をもつ第7自動装甲旅団、それに45ミリ砲を装備した第8モンゴル装甲師団がいた。
 わが軍の主要な切札は装甲戦車部隊であった。われわれはそこで、時を移さずこれを利用する決意をし、渡河したばかりの日本軍部隊をして塹壕を掘り、対戦車防御をさせないよう、前進しながら攻撃しようとした。わが方の反攻を引延ばすことはできなかった。敵はわが戦車部隊の接近を発見して、敏速に防御措置をとりはじめ、わが戦車縦隊を爆撃しはじめたからである。しかも戦車隊には遮蔽場所がなかった。周囲数百キロはかん木1つない全くの広漠たる野天であった。
 午前9時15分、私は前衛大隊の主力に随行して指揮していた第11戦車旅団長ヤコブレフと会った。情況を協議した結果、私たちは全空軍を招集し、戦車および砲撃の行動を急ぐこと、午前10時45分までに敵を攻撃することを決定した。10時45分、第11戦車旅団は展開し、日本軍部隊に向って前進しながら攻撃した。」(『ジューコフ元帥回想録―革命・大戦・平和』「第7章 ハルハ川(ノモンハン)の宣戦なき戦争 急襲による日本軍掃滅」朝日新聞社/1970)

(資料[2])
「第141 遭遇戦の特色は、行軍部署より迅速に展開し、随時随所に敵に対し迅速なる攻撃を加うるに在り。展開、射撃開始及び攻撃前進発起の時期に関し敵の機先を制することは遭遇戦指導の要訣なり。
 此れ故に、各級指揮官は大胆且つ勇敢にして、積極的態勢を占め、断乎たる行動を以って、敵をして我に追随するの止む無きに至らしむるを要す。
 
 第142 遭遇戦生起に当り、状況の判明を期待することは不可能なり。捜索の結果は的確なる能わず、而も敵の運動に伴い情報価値の喪失も亦迅速なり。
 敵情不明は遭遇戦の常態なり。
 状況の判明を待って遅疑逡巡するものは、却って敵に捜索の利便を与え、先制の利を喪失するものなり。」(『1936年発布 労農赤軍野外教令』)

(資料[3])
「一、(遭遇戦の)一般指導要領
 イ、先制の必要を強調す
 遭遇戦の要訣は先制に在りとし、特に展開、射撃開始及攻撃前進発起の時期に関し、時間的に敵の機先を制することの必要性を強調しあり。即ち敵情の不明は遭遇戦の常態なるを教示し、各級指揮官に果敢なる攻撃精神を要求す。
 ロ、略
 ハ、逐次戦闘加入を本則とす
 前衛は独力を以て勇敢に行動し、敵主力の展開に先だち敵の前衛及先遣支隊を撃破することに勉め、以て縦隊主力をして殲滅戦遂行に容易なる態勢に展開せしむべきものとす。」(帝国在郷軍人会本部編『ソ軍常識』軍人会出版部/1939)

(資料[4])
「このようにして、日本軍は、ソ・モ軍部隊を深い迂回戦術によって包囲し、殲滅しようとしたけれども、自ら包囲に陥り、それによって日本軍の主力は潰滅に終った。この戦闘はバヤン・ツァガーンの死闘の名で歴史に記憶されることになった。それは、敵突撃軍団の決定的敗北をもって終った、我が軍の積極的防禦戦の輝かしい一例である。敵を潰滅させるのに基本的な役割を果したのは戦車と装甲車である。バヤン・ツァガーンの戦闘が示しているのは、これら迅速な移動手段は、戦術性と攻撃力とを兼ね備えていれば、攻撃のみならず防禦にとっても、少なからぬ効果をもって利用できるということである。」(S・N・シーシキン大佐「1939年のハルハ河畔における赤軍の戦闘行動」シーシキン他『ノモンハンの戦い』田中克彦・編訳/岩波現代文庫/2006)
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