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2019年02月19日14:26

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2月19日 これが本当の知波単戦です!

 一年ぶりに靴を新調した。去年は5月から11月まで左足の脛腓骨骨折で入院しており、退院後もしばらくは松葉杖で体を支えてやっと歩けるぐらいの内は外出も控えていたので、靴を履く機会も少なかったのだが、2月に入り、杖を手放して歩行しても、ふくらはぎや足首が痛むなどもしなくなったので(まだ、早足や手すりを持たずに階段の昇降はできないが)、心機一転のつもりで、これからは以前のようにフットワーク軽く(ただし足許はよく見て)動きたいという願いも込めて買ってきた。
 車に乗れるようになった1月ごろから、出社して事務仕事はこなしてきたが、少しずつなら足もつかう業務もできそうである。

近況報告はここまで……

「いくらなんでも"闘魂"だけではどうしても勝てないのよ……」


「……ほどなく連隊からTという奈良県出身の秀才の大尉が大本営に転出した。大本営の作戦中枢は戦車の用兵について暗いためにT大尉の専門知識を必要としたのである。昭和二十年のぎりぎりになって、はじめて参謀本部が戦車の用兵を知ろうとしたということは
記録しておくに値する。
 T大尉が献策が効を奏したのか、それまできわめて概念的だった日本陸軍の戦車用兵がはじめて実際的になったようにおもわれる。敵の戦車との格差がわかり、その格差を認識した上での戦いの方法がきめられた。これを進歩というのはおかしいが、しかし日本的状況では進歩というほかない。その方法というのは、敵が上陸(のぼ)ってきて敵戦車がやって来そうなあたりに、無数の壕を掘るのである。敵の戦車を落すための壕ではなく、味方の戦車がもぐりこむための壕であった。
 トラックがすっぽり入るぐらいのクサビ形の壕をあらかじめ掘っておく。そこへ味方戦車が入り、ドンと射撃をして後退で這い出し、次ぎの壕へ躍進して、その壕からチョッピリ砲塔だけを出して敵を撃つ。これなら土が装甲の代用をするために、味方戦車の薄手の装甲を補いうるというのだが、そううまく問屋がおろすかどうかはべつとして、しかしすべての戦車は均質という抽象的レベルから思考が具体的レベルに転換したという点で、思想としては進歩したといわねばならなかった。しかしこんな方法で勝てるかどうかということになると、別問題かもしれない。」(司馬遼太郎「石鳥居の垢」昭和47年7月『司馬遼太郎の考えたこと 6』新潮文庫/2005所収)

 前回に引き続き「九七式中戦車(チハ車)」の話である。「チハ車」に当初搭載されていた57ミリ砲(九七式五糎七戦車砲)は、太平洋戦争初期のビルマ、フィリピン攻略戦で交戦した米国製のM3スチュワート軽戦車の装甲(前面38ミリ・側面25ミリ)を抜くことができなかった(ビルマの戦車第1連隊が、鹵獲したM3を標的に実施した試験では「300メートル以内で、側面に射弾を集中すれば、撃破できる"可能性がある"」という判定が下された)。フィリピンにあった戦車第7連隊長・園田晟之助大佐は戦地から、「戦車砲の威力を大ならしむるは国軍戦車緊急の急務なり。米軍戦車の正面の鋼板厚は五十『ミリ』に近く速射砲を以てするも三百米以内に於て辛うじて穴の開く程度なり我が戦車砲を以てしては百米位に近接せざれば破砕し得ざる状況なり之では敵戦車に必勝の信念にて突進することは困難かと存候」(『機甲』昭和17年5月号)と苦衷を訴えていたが、これに応えるかたちで、陸軍当局は次期主力戦車「試製九八式中戦車(チホ車)」に搭載予定(チホ車の生産はキャンセルされたが)であった「一式47ミリ戦車砲」を既存のチハ車(68両)の砲塔に乗せ換えた「新砲塔チハ(チハ改)」10両で編成された「臨時松岡中隊」をフィリピンに急遽派遣した。この「一式47ミリ戦車砲」は、初速810m/秒(九七式五糎七戦車砲は420m/秒)、松岡中隊が昭和17年(1942)4月2日にフィリピンで行なった鹵獲M3軽戦車を使用した射撃試験では、その正面装甲を1,000mの距離から6発中3発が、800mでは9発中6発が貫通した。これでM3に真っ向勝負をいどんでも打ち勝てる目処が立ったわけだが、松岡中隊がM3と実戦で砲火を交える機会はついにめぐってこなかった(5月6日、コレヒドール島の米比軍降伏)。
 日本軍の進攻の前に一時フィリピンを明け渡したアメリカ軍が、ソロモン諸島のガダルカナル(1943年2月)を皮切りに、ニュージョージア(同年8月)、ギルバート諸島のマキン・タワラ(同年11月)、マーシャル諸島のクェゼリン・エニウェトク(44年2月)、マリアナ諸島のサイパン(同年7月)、グアム・テニアン(同年8月)、ペリリュー(同年11月)と、島嶼伝いに「蛙飛び」で日本軍の拠点をつぶし、捲土重来、フィリピンに反攻をかけてきたのは、44年10月のことだった(10月20日、レイテ島に上陸)。このとき米軍が持ち込んできたのは、もはや旧式のM3軽戦車などではなく、前面装甲76ミリ、側面装甲50ミリ、重量30t、75ミリ砲をもつ、チュニジアで名にし負うドイツの「ロンメル・アフリカ軍団」にとどめを刺した「M4シャーマン中戦車」であった。新砲塔チハの47ミリ砲では、側面もしくは後面にまわって至近距離から攻撃する以外に勝機はない。これを「弱点射撃」と称したが、ルソン島でM4と交戦した戦車第2師団(撃兵団)は、44年11月にはいち早く、「壕内に潜伏し、壕なき時は巧に偽装し」「常に巧妙に我が姿を秘匿し」て、M4が「我が必殺火器の威力圏内に迫る」時機を捉えて、「精密なる射撃を以て之を必殺すべし」(資料[1]参照)という戦闘教令を布達している。つまり「物陰から伏兵で闇討ちをくわせる」戦法であるが、弱者が勝つには「武士道に悖る卑怯な振舞い」などとは言ってはいられない。ルールを律儀に守って定石どおりにゲームを進めるのは強者にのみ許される特権であり、弱者が強者に一矢報いるためには、強者が当然に勝つルールなど一顧だに払わずに、奇策を弄してでも番狂わせの勝ちを拾いにいかなければなるまい。そうした構想に至ったのは、司馬遼太郎氏が「すべての戦車は均質という抽象的レベル(=戦車は戦車である以上、敵の戦車と等質である。防御力も攻撃力もおなじである」)から思考が具体的レベル(=彼我の戦力にはいちじるしく懸隔がある)に転換した」という意味では進歩(遅きに失したが)と言えるものだった(寺本弘氏などは「所詮は竹槍戦法に過ぎなかった」と、にべもなく一蹴しているが―資料[2]参照)。
 現に撃兵団の戦車第3旅団(長・重見伊三雄少将)に属する戦車第7連隊(一式中戦車1個中隊[九七式の装甲・速度増強型]12両と九七式1個中隊12両から成る)は、45年1月17日、戦闘教令に示された待ち伏せ戦法で、リンガエン湾からマニラにむかう街道上で、M4戦車を10m以内まで引きつけて伏撃し、20両のうち3両を炎上させるという奇功をあげている。また、戦車第10連隊(長・原田一夫大佐)は1月31日にルパオの守備につくや、ただちに戦車壕を掘り、そこに戦車を格納して砲塔のみを出したトーチカ陣地を構築、2月3日から進攻してきたM4とはげしい砲戦を交えたところ、「われに損害なくトーチカ陣地は強靭な底力を発揮した」という―けっきょくは2月5〜6日に50両のM4に攻め立てられ、30数両の戦車を5両にまで擂り潰されることとなったが―戦い方さえ工夫すれば、M4相手でも戦えないわけではないことを証明した。
 しかし、手持ちの駒が少なく、その損失の補填が利かないとすれば、いくら局所的に敢闘しようとも、数にまさる米軍にしまいには押し切られるのは目に見えている、それでも戦闘教令どおりのゲリラ戦法に終始して持久戦に徹していれば相当な時間稼ぎもできた筈のものを、トンチンカンな14方面軍(方面軍司令官・山下奉文大将)司令部は、「重見少将の戦車第3旅団は、第23師団および第58旅団よりそれぞれ選ばれた1コ大隊ずつをあわせ指揮し、1月23日の夜、リンガエン湾の敵司令部に殺到せよ」(中学生がおのおのバット一本持ってヤクザの組事務所に出入りカチコミをかけるみたいな)という、「自殺行為にも等しい」命令を下し、1月23〜27日のあいだに、旅団をまるごと一つ消滅させられるという愚を演じている(重見少将も戦死)。
 「肉迫攻撃は対戦車決戦手段にして、肉迫攻撃を以て単に邀撃を本旨とする自衛戦闘手段と見做さんとするが如き思想は之を一擲するものとす」(大陸指第2525号/昭和20年7月16日)と力んでみせようが、弱者が強者に一泡吹かすには、相手に現認される前に、抜き足差し足忍び足で死角からにじり寄り、急所に一発食わして、あとは三十六計逃げるに越したことはない。参謀本部はそうした思想を飽くまでも「敗北主義」と見做し、潔しとはしなかったようだが―

(資料[1])
「戦闘の重点は対戦車殊に対重戦車戦闘なり
 我が装備の不足は訓練より得たる神技と卓越せる奇策とを以て完全に之を補ひ、優越感を以て断乎敵戦車を撃滅すべし。
 対戦車戦闘の要訣は其の弱点を熟知し、奇策を用ひて其の不利を拡大せしめ、之を奇襲するに在り。壕内に潜伏し、壕なき時は巧に偽装し、伏臥して絶対に静止し、若くは極めて微かに匍匐せば、敵戦車に発見せらるることなし。
 敵戦車必殺の為には無傷の内に我が必殺火器の威力圏内に迫るを以て第一義となす。之が為には邀撃を以て最良とし、敵戦車突進の好機を捕へ、若くは奇策を用ひ好餌を見せて之を我に誘致すべし。
 敵戦車に対する戦闘に方りては、常に巧妙に我が姿を秘匿し、而も精密なる射撃(投擲)を以て之を必殺すべし。射撃の為、必要ある時は素より敢然として我が姿を現はすべし。而も敵に照準の暇を与へざる内に、俊敏に我が姿を没すべし。是れ姿なき強敵、見へざる火網にして、本戦闘の為至上の妙法なり。」(「撃兵団(戦車第2師団)戦闘教令」昭和19年11月15日)

(資料[2])
「……さて、本土決戦では、戦車の戦法として、兵力の集結使用による局部的優勢の確保、地形や築城を利用する邀撃、あるいは面的に配置した伏兵的邀撃などが推賞され、また米軍戦車M4の弱点に対する射撃が強調された。
 とくに終戦近くになると、M4に対してわが47ミリ砲は、通常の射撃距離では対抗できないので、近距離から砲口、眼鏡、潜望鏡、履帯などの弱い部分を射撃するよう示された。
 これがいつのまにか「弱点射撃」と呼ばれるようになった。この弱点射撃の訓練を徹底すれば勝てる、などの錯覚に陥る向きも少なくなかった。が、所詮は竹槍戦法に過ぎなかったのである……。
……『戦車と戦車の戦いは、個々の戦車の持つ性能により決す』
これは機甲の有名な先輩の遺言だが、『敵の戦車と対等に戦えない戦車は、もはや戦車ではない』という人もいたことを付言しておこう。」(寺本弘『戦車隊よもやま物語』光人社/1999.4)
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