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2019年02月12日16:05

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2月12日 まんがはじめて物語(せんしゃの巻)

「クルクルバビンチョ パペッピポ ヒヤヒヤドキッチョの モーグタン」(アラフィフしか知らねーよ」

「大正十四(1925)年に軍縮(宇垣軍縮)が行はれた時、その代償として機械化部隊の強化と云ふことが行はれた。
 此時、初て久留米に歩兵学校の戦車隊が新設された。隊は、新設されたが、殆ど戦車はなく、中隊に英国製一台、フランスのルノー軽戦車一台などと云ふ時代があった。が、歩兵学校で、操縦運転を習った将校以下の人達は、泥と油にまみれて、この新兵器と戦った。
 が、これらの戦車は、英国製とフランス製とは、機動力も装甲も違ふので、日本式の戦車を作って統一を計らねばならぬと云ふ意見が、歩兵学校から出た。それに依って作られたのが、八九式戦車であった。」(菊池寛『昭和の軍神西住戰車長傳』東京日日新聞社 , 大阪毎日新聞社 1939.9)

 日本初の国産制式戦車「八九式中戦車」について、みずからも戦車隊の下級将校であった昭和の国民的小説家、故・司馬遼太郎氏は、エンジン、操縦装置こそは当時の世界水準を上回るものであったものの(これは製作に携わった原乙未生[はら・とみお]技術中将も戦後に誇っているところであるが、これは第一次大戦の終る1918年までに英仏で製造された「大戦型」戦車との比較においてある)、「57ミリの大砲は砲身がみじかすぎて敵に対する貫徹力がまったくなかった。それに鋼板が薄すぎ、敵の砲弾はどんどん貫いてくるのである。攻撃力も防御力もないというのは、戦車ではなくオモチャであった。もっとも姿だけは日本の源平合戦の甲冑武者のように当時の世界のどの戦車よりも堂々としていた」(「戦車・この憂鬱な乗物」)と冷評している。この「八九式中戦車」は、昭和14(1939)年の対ソ戦(ノモンハン事件)で「主力戦車」として用いられたが、そのt短砲身「57ミリ」砲は、ソビエト軍のBT快速戦車の装甲板にカスリ傷もあたえることができず、却って日本の八九戦車はBT戦車の長砲身「45ミリ」砲から射ち出される高初速の砲弾によって装甲板を錐をとおすように射抜かれて、「戦闘というよりも一方的虐殺」(同上)という惨敗を喫した。
 日本の戦車は、ノモンハンでソビエトのBT戦車にコテンパンにのされた「八九式」にしても、その後継で、太平洋戦争でアメリカのM4中戦車に全く太刀打ちできなかった「九七式中戦車」にしても、同時代の欧米列国の戦車に比して、悲劇的なまでに「非力」であった。その理由を日本の工業力(機械、冶金工業等)の劣後、国家財政の余裕のなさに求める議論もある。しかし、あたしは、それ以前に日本の「将来戦を想定した戦車整備のコンセプト設定」からして誤っていたのではないかと考えている。
 日本が、大正14(1925)年に初めて戦車隊を設立するに当って、その教育訓練用に導入したのは、フランスの「ルノーFT軽戦車」(2人乗・6.5トン。『ガルパン最終章』でBC自由学園のマリーの乗る隊長車。写真参照)と、イギリスの「マークAホイペット中戦車」(3人乗・14トン。日本では10トンを超える戦車は「重戦車」扱い)であった。どちらも「大戦型」の旧式で、ルノーFTは世界初の回転砲塔(37ミリ砲)をもってこそいたが、時速わずかに8キロ。ホイペットは時速14キロは出せたが、左右各1台のエンジンが、キャタピラを別々に起動する構造で、方向をかえるために一方のエンジンを絞るので馬力が低下するという不利があった。どちらも機動性に難点があり、運動戦には不向きである。日本軍は伝統的に「迅速果敢なる運動戦に依り、一挙敵を圧倒せんとする」運動戦志向がつよく、そのため新設の戦車隊に採用すべき戦車は「運動戦にも有利に使用せられ、陣地戦にも使用せられる」ものが求められた(資料[1]参照)。そのためには、フランス軍のように、「其の重量と戦闘力に依り、歩兵及び軽戦車の為め通路を開き、又敵の拠点に於ける抵抗を挫折す」る「重戦車(突破戦車)」と、「真の歩兵随伴戦車にして歩兵と最も密接なる連繋の下に敵陣地の掃討、軽微なる拠点の抵抗挫折、及び敵逆襲の阻止等の任務に服す」る「軽戦車」の二本立ての装備系統を持つ(フランス軍総司令部参謀部第3課『自動戦車隊戦闘教令』1918年)か、或はイギリス軍のように「中型戦車を以て重、軽両種戦車の任務を兼ね」させるかの二途がある。日本の当局者は、中型戦車は「重、軽両種の中間に在りて、孰れの任務をも完全に達し得ざるの感あるのみならず、運動戦に使用する為には型体尚大に失し、砲弾に破壊され易きの不利あり」という先入観から、軽快な10トン以下の「軽戦車」を主力に据え、20トン以下の「中戦車(日本では重戦車)」を陣地戦を念頭に、補完的に整備するという途を選ぶこととした(資料[2]および[3]参照)。そして、いよいよ外国製依存から自力で戦車を整備するにあたり、「重量約10トン。最高速度=毎時25キロ、登坂能力2/3、超壕幅2メートル、武装37ミリ砲1(旋回砲塔内)、機銃1以上。装甲=主要部にて37ミリ砲弾に抗堪」という条件を付した。陸軍の技術陣はこの条件のなんとかクリア―して「八九式(軽)戦車」(試作では9.8トンだった重量が、後に超壕能力をたかめる目的で尾体を取付ける等したため11.5トンとなり、規格では「中戦車」になってしまったが)を完成させた。「軽戦車として作られながら、規格だけは中戦車になってしまった」ことが、「八九式」の運のツキであった。武装こそ当初予定していた37ミリ砲よりも二回りも大きい57ミリ砲を装備したが、歩兵をぶち上げ、機関銃座をたたき潰すには有効なこの砲は、20ミリほどの装甲を500〜600mの中距離で貫徹するだけの威力はなく、最厚部17ミリの装甲は、小銃弾や機関銃弾は撥ね返しても、ラインメタル社の対戦車砲の37ミリ徹甲弾では300メートルの距離からならばどのような角度からでも貫徹可能であった。いちばん重視された機動力(最高時速25キロ)も、「大戦型」のルノーFTやホイペットなどに比べれば倍増しているが、「八九式」のモデルの一つとなったイギリスの「ビッカースC型中戦車」は時速35キロをマークしているので、同時期の戦車のなかでずば抜けて高速であったとも言い難い……ひととおりの機能を、10トン前後の車体にコンパクトに纏めてみせた、とは聞こえがいいが、つまりは「器用貧乏」で、歩兵に密接に随伴して補助火力として用いるならばまだしも、これで堅塁突破や対戦車戦闘まで行うとするならば荷が重すぎた。
 初めて国産戦車を製造するに当って、折角ならば「走・攻・守」ともにすぐれたものを作りたいと願ったことは分らないでもない。しかし、そのためには数々の試行錯誤を重ね、モデル・チェンジを繰り返すことを怠ってはならないし(ドイツの傾罅↓弦罅↓更罐僖鵐拭爾砲靴躄修を頻繁におこなっている。「八九」式はガソリン・エンジンの[甲型]からディーゼル・エンジンの[乙型]になったぐらい)、または「八九式」では能力的に不足である部分は、ほかの車両で補う工夫をすべきであった。(たとえば日本陸軍は、試製一号戦車を作ったときの派生型で70ミリ主砲と37ミリ副砲をもつ装甲最高厚35ミリの「九五式重戦車」という26トンの戦車を制式化したが、「機動戦には不向き」のレッテルをはられ、実戦には用いなかった。この砲力や防御力は捨て難いのだが……)
 突出した性能をもたない戦車を「(万能)主力戦車」として採用し、改良することもほとんどなく、10年以上も漫然と使用していたとは、司馬遼太郎氏のいうように、日本の参謀本部に「兵器を開発するときに世界水準よりもやや弱力のものをえらぶ」という暗黙の思想があったとしか言いようがない(司馬氏のいうように、参謀本部のお偉方が、改良を求める技術家の言に耳を傾けようとせず、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう。それに薄ければ機動力もある。砲の力がよわいというが、敵の歩兵や砲兵に対しては有効ではないか」と言って恬として恥じるところが無かったとすれば、まさに「国辱もの」である)

(資料[1])
「欧州戦当時、主として陣地戦用兵器として認められたる戦車は、戦後、技術的進歩に伴ひ漸次其戦術的利用の範囲を拡張し、今や迅速果敢なる運動戦に於ては勿論、偵察に任ずる騎兵部隊にも之を配属するの域に達せり。殊に戦車は地形上運動不便なる陣地戦よりも、寧ろ自由地帯に於ける運動戦に於て益々其価値を発揮し得べきことは、其特性に鑑み明かなる所なり。
 以上の如き趨勢に在るを以て、将来之に対する我国軍に於ても亦、戦車を採用するの暁に於ては、運動戦に於て有効に使用せられ、尚、陣地戦に於ても使用せらるる如き戦車を準備するの着意を必要とす。殊に迅速果敢なる運動戦に依り、一挙敵を圧倒せんとする我国軍作戦の根本方針に鑑み愈々然り。」(『軍用自動車調査委員彙報』第5号/大正13年7月)

(資料[2])
「国軍の戦時編成すべき戦車隊は、其の大部を軽戦車隊とし、之に一部の重戦車を加ふるものとす。従て今後新設せらるべき其の平時部隊も亦、先づ軽戦車隊より着手せらるるを以てなり。而して軽戦車を概ね一〇瓲以内にして、仏国製『ルノー』戦車に類するものとしたるは、該戦車は現今欧米に於て研究又は採用せられある軽戦車中、比較的我国軍の要求するものに近似せるが為にして、又、概ね二〇瓲以内の英国製中型戦車に類するものを我重戦車に採用せむとするは、我作戦方面の地形及輸送の関係上、之を以て適当と認めたるを以てなり。」(参謀本部「戦車の整備方針に関する件」大正14年3月16日)

(資料[3])
「……運動戦及陣地戦共に戦車を用ふるものとせば、仏国軍の如く威力絶大なる重戦車と、運動最も軽快なる軽戦車とを併用するを最も有利とすべし。重戦車は製造に多大の軽費を要するのみならず、到底我国の輸送機関は之が輸送に堪へざる所なり。又、英国の如く中型戦車を以て重、軽両種戦車の任務を兼ねしめんとするは、確かに有力なる一案なるべきも、元来中型戦車は重、軽両種の中間に在りて、孰れの任務をも完全に達し得ざるの感あるのみならず、運動戦に使用する為には型体尚大に失し、砲弾に破壊され易きの不利あり……。
……戦車の種類は運動戦に於て有効に使用し得ることを主として軽戦車一種となし、尚、陣地戦を顧慮し、中型戦車をも製作し得る準備にあること必要ならん。」(『軍用自動車調査委員彙報』第5号)
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