mixiユーザー(id:33120836)

2022年01月19日00:03

25 view

最適への道筋

2022/01/16の日記で、個別最適の総和が全体最適にならないのは「変化」があるからと言う仮説を思いついた話を書いて、その際に引き合いに出したのは「共同牧場の悲劇」でしたけれど、これは閉鎖的な環境で前提が非常にシンプルであるため、「変化がないように見えても、個別(各自の)最適と全体最適が異なるのは変化のせい」と言うことが明確になると思えたからです。実際に私が「もうちょっと広い視野で見てくれよ」と思うのは、業務フローを個別の案件で最適化しようとするとか、担当者が自分の得手不得手でどんどんやり方を変えてしまうと言ったことで、標準化は個別最適の効率化を求めると成り立たないにもかかわらず、「各自が最大限の努力をしろ」と言う言い方で標準化を阻害する現実です。

上長は、標準化も大事、と思っていないわけでもなく、自分がやっていることが標準化の阻害要因であることを認識していないので、方針変更の厄介さが倍増します。いわゆる「有能な敵より、無能な味方のほうが手強い」と言うやつで、そういった人は特定の「認識の壁」以外では優秀だったりするのが一段と問題だったりしますけれど、おそらくは「優秀だけど、上層部と同じように間違った認識を持っている」こと自体が管理職に任命される理由なのでしょう。

世界をどのように認識しているのか、と言うのは、非常に大きな問題で、特に認識が周囲と一致していない場合にはさらに大きな問題となります。私にとっては、「ちょっとした工夫でどんどん改善できる」はずのことが、その「ちょっとした工夫」をすることが認められない職場なので、働きにくいし、達成感も得にくいし、徒労感も感じやすいという悪条件になっています。そして、耳の聞こえない人達に紛れて大騒音の場所に迷い込んだごとく、その「ちょっとした工夫」をしているか、していないかを見分けられる人がほぼいない(そういう人にとっては居づらい職場なので当然かもしれません)ために疎外感も感じます。そして、こんなところで愚痴るしかないわけですけれど、読んでくれる人がほぼ居ないわけですから、かえって疎外感を深めることになるのかもしれません。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する