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2020年10月15日23:49

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観察と働きかけ

電車に乗った時に、ドアの近くに立ちふさがっている人が居ると「周りを見ないんだろうか」と思いますし、そういった人たちに対する苦情や「結局、そういった人たちは低所得者になるしかない」みたいな発言もしばしば見かけます。実際には、周りを見ないからこその突破力だったり、その場面だけでは見えない良さもあったりするわけで、必ずしもそういう人が劣った存在と言えるわけではないでしょうけれど、まあ、腹の立つ行為だということには十分同意です。ちなみに、身体も態度もでかいお兄さんが満席の電車に大股開きで座っていて、当然普通の二人分の座席をしっかり使っていたのですが、ちょっと足元の怪しい老夫婦が乗ってきたら、いきなり席を譲った、と言う場面を見たことがあります。普通に座っていたら一人分しか譲れないので、物事には様々な側面があるのだと認識を新たにしました。

それはさておき、私は街中ではかなり周りの人たちの動きを見るようにしていて、なるべくスムーズに通行できるように考えながら自分の動きを決めています。ただ、単に遠慮して歩いているというわけではなく、必要があれば相手によけてもらえるように「とにかく、まっすぐ歩くんだ」感を醸し出しながら進んでみたりと、基本は譲り合ってよける労力の総和がなるべく小さくなるのが目標です。で、先程のような「平然と邪魔をする」人がいると、和が乱れるので不愉快になるわけです。しかし、面と向かって要望を伝えることはほとんどなく、大抵は必要に応じて「これだけふさいでたら、このくらいはぶつかっても仕方ないよね」と言う程度に(もしくは抗議の意味を含んだちょっと強めの当たり方で)当ててよけてもらうくらいのものです。

そんなことを考えていたら、結局のところ私は周囲のことを考えているというよりは、自分が効率よく移動するに際して、極力人とかかわらないように努力しているのではないかと言う気がしてきました。まあ、クルマの運転も含め、周りから「次に何をしようとしているか」が分かりやすいのは安全の基本であり、それもコミュニケーションの一種ではあるものの、そのコミュニケーションは「円滑な移動」を目的としており、非常に限定的で、そこから交流が広がることはまずありません。それに比べたら、「ちょっとよけて」の一言でも、それ以外の目的の会話につながる可能性は段違いに高いでしょう(まあ、いきなり「よけて」と声をかけて、そこから仲良しになる可能性自体がそれほど高くないでしょうけれど)。

いまさら自分が人と係わろうとしない事例を一つ追加で見つけたからと言って驚くようなことでもありませんけれど、もう少し「人間ならでは」のコミュニケーションをとる機会を増やしてみたほうが残りの人生にも多少は役に立つのかもしれないとか思ってしまいます。
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