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2020年10月14日23:25

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賞賛の裏側

孤高の天才、と言う言葉がありますけれど、たとえ孤高でも天才と呼ばれるからには一定数の人がそれを天才と認めていることになります。例え、幼少期とか、当初は、と言った時期に理解できる人が現れなかったとしても、誰一人として認めなければ、天才と呼ばれるどころか、存在を知る人もいません。ほとんど知られずに忘れ去られた、と表現されるような昔の学者だって、本を出版したり、論文を発表していたりするのであれば、それができる程度に認められていたということになります。それを考えると、やはり能力と言うのは人に認められてこそ能力ですし、自分に能力があると思うなら、それを人に理解させることが「能力がある」と言うことになります。

一時期、インディーズバンドのライブをちょこちょこ聞きに行っていて、売れていなくても素晴らしいバンドはいくらでもいるものだと感じました。息の長い活動ができるかどうかは別として、「テレビで華やかに活躍してする」ためには実力だけでは足りないのだと思いました。一部には、実力とは別の理由で華やかな活躍ができる人もいるようですし、歌手として活動していても歌とは別の実力で華やかに活躍する人もいるでしょうけれど、ある意味、結果論以外で「一握りの人」になる方法など語れない気がします。

ひとつだけ言えるのは、多くの人に支持されることが大事で、支持してくれる人が多ければ、その中の誰かがどんな「実力」があるのかを説明してくれるということです。とは言え、自分が高めたい能力が人に支持されるものかどうかは別の問題で、状況の変化でその能力が突然評価されるようになれば、それこそ「孤高の天才」「認められなくても努力を続けることが大事」と言われるようになるでしょう。しかし、そこには同じようにしていても認められないまま終わる数多くの人々がいるわけで、「認められなくても続ける」ことを過剰に美化するべきではありません。限りある資源を有効に活用する努力と、多様性を確保して新たな問題を解決できる能力を開拓する努力はともに必要であり、両者をバランスよく続けることで存続、繁栄の可能性を高めることができるのです。
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