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2020年09月22日00:33

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誰かにやってもらうこと

お彼岸と言えば春のぼたもち、秋のおはぎです。と言うか、最近ではおはぎの名前で一年中スーパー等で売るようになりましたし、私も軽くついたご飯をあんでくるんだものはおはぎと呼んだ方がしっくりきます。と言うか、ぼたもちと言うと、どうしても「もち」のイメージが強くなり、私の中の「おはぎ」と違うものに思えてしまいます。

お彼岸と言うことで、小豆を煮てもち米を混ぜてご飯を炊き、おはぎを作ってたっぷりと食べました。いまではスーパーなどで売っているおはぎもおいしくなりましたが、以前は和菓子屋でもなければまともなおはぎは売っておらず、和菓子屋もどんどん少なくなっていたため、自分で作るのが手っ取り早いということになりました。もともとは母が作っていたのでほぼ見よう見まねから自分でも工夫をして作り続けています。

家庭でおはぎを作るなど、今となってはサザエさんくらいしか聞かないような気がしますが、やってみるとそう手間のかかるものでもなく、おなかいっぱい食べたいなら作るのがおすすめです。とは言え、私のようにおなかいっぱい食べたいという人も少ないでしょうから(私も買ったおはぎを三つも四つも食べる気にはなりません)、まあ、つくらないのが普通になって当然なのでしょう。

私は大学進学と同時に実家を出て、おはぎもその時から作っています。普通は「おふくろの味」が食べたいと思ったら実家に帰って作ってもらうのでしょうけれど、「食べたいなあ」「帰ってくれば作るよ」「帰るの面倒だなあ」「じゃあ、自分で作れば」「そうだね」くらいの感じで、自分で作ることにしました。この時は別にケンカをしたわけでもありませんけれど、私は誰かとケンカをしても「だったら自分でやれ」と言われても「そうするか」で終わってしまい、それはそれで楽ではあるものの、仲直りや折り合いが必要ないので、対人スキルの向上ができませんでした。また、「金がないなら自分でやれ」と言うのも困らないとなると、金持ちになろうという意欲もわきにくいというものです。

以前、「自立」と言うのは依存先の多様性があること、と言う説明を聞きました。考えてみるとその通りで、社会的生活と言うのは社会に対して様々な「依存」をするということで、その依存先が特定の人物だったりすると「××さんに依存した生活」になるわけで、依存が悪いわけではなく、依存先が限定されていることが問題と言うことになります。そして、社会に依存しない自立は依存しあうことを前提にした「社会」への挑戦であり、そう考えると社会性のない人物が世間から嫌われるのは当然ということになります。そう考えるようになってからは、必要がなくても周囲に依存する態度をとるように心がけるようにしているものの、生来の気性と長年の習慣はそうそう変わるものでもなく、まあ、管理職に出世したりできないのも仕方ないことだと思いながら定年を待つようになりました。
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