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2020年01月28日23:57

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悩んだ時に頼るもの

ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を読んだのは、中学生だったか高校生だったか、やたらと厚いうえに何の展開もないままだらだらと続き、まあ、聖書を通読するなら似たようなものか、と、いちおう一通り読んだような、斜め読みしてまともに読まなかったような、今読んだらどう感じるかと思うものの、二度も読む気にならない本と言う印象が残っているので手に取っていません。それでも読んだことが頭から離れないのは、キリスト教を「奴隷の哲学」と批判したことがやたらと印象に残っているからです。

宗教は人の救いであると同時に社会秩序の源泉となるので、純粋に救いであることは困難です。と言うか、おそらく個人にとっての純粋な救いは人をつなぐ宗教とは相いれない部分があり、とは言うものの、人とつながることが救いになるのも一面の真実ではあるので、結局のところ人が純粋に救われることなどないということでしょう。それはともかく、イエスが当時のユダヤ教会を形式的で腐敗していると批判したにもかかわらず、中世のカトリック教会も形式的で腐敗したものとなったのと同様に、体制となった宗教は救いを提供するよりも罪を糾弾することに重点が置かれます。そしてそのたびに、救いを提供する新たな宗派が生まれ、いずれにしても聖典にはだいたい救いの道が述べられているというのは、キリスト教にも仏教にも共通しています。

孔子についていろいろ調べてみると、道徳を強要する宗教の代表とも思われる儒教ですら、孔子が提示した思想で言えばかなり自由な発想を認めていることがわかります。ニーチェが批判したキリスト教がキリストの教えなのか、ヨーロッパの社会基盤となったキリスト教なのか定かではないものの、根本的に「人は神によって生かされている」と言う思想があって、「生かされるのではなく、自身によって生きる」ことを選べ、と言う主張にはその辺は関係ないのかもしれません。しかし、「自身によって生きる」と言う思想によって、逆に奴隷的な思考に陥ってしまうこともありそうです。

極端な自由主義経済の信奉者は、人は能力によって稼ぎ、稼いだ分幸せになると考えます。また、神を介さない相互扶助の考え方はギブアンドテイクであって、提供した分を受け取ることができるという考え方が主流でしょう。いずれにしても、働かざるもの食うべからずという思想につながり、口のうまい怠け者が搾取するときに他人に押し付ける(自分は他人に命令するのが「仕事」なので、それ以外では働かない)思想です。新約聖書には、「野の花は働かなくても美しく咲く」と、働くことを強要しない旨の記述があり、自由意思で稼いだり、助け合ったりすればよいのだ、と説いています。私のような人徳と無縁の人間がこんな話をしても「お前が怠けたいだけだろう」と言われそうですが、「自分は社内の役に立っていない」などと悩んでいる人がいたら、教えてあげたい気がします。
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