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2020年01月23日23:34

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正義はあきらめ

私はこの日記でよく正義を批判します。よく正義の基準として使われるのは、公正さや人道的な観点で、ただ、人道的な観点で言えば、近代ヨーロッパ人が奴隷を正当化するために使った「あれは人ではない」と言う最大の「ご都合主義」が成り立つので(実際に、非人道的なことをした人に向かって「あんなのは人ではない」と残酷な刑罰を求める「優しい人」の例は身近にたくさんいるはずです。まあ、そんなことを言うから「人間味に欠ける」「人の気持ちがわからない」と言われるのでしょう。)正義の基準としては当てになりません。で、私が正義の代わりに用いるのは「公正さ」に近いもので、要するに「あなたの主張は立場を入れ替えても納得できるものですか」という問いが肯定できれば、それは「正義」に近いものになるだろう、と言うものです。

ところが、大抵の「正義」は立場の逆転に耐えられるものではありません。だからこそ、正義のぶつかり合いで報復の連鎖が起きて悲惨なことになるわけで、ただ、正義を主張する立場から言えば「こちらに正義があるのに、立場を逆転するなどありえない」と言うわけで、実は正義とは公正でなくてよいという免罪符と言うことになります。そういえば、しばしば「ヒーローは悪の怪人を大勢で(協力して)倒してもよいのか」という話が出るけれど、正義ってもともとそういうものだよね、と言うのが答えなのかもしれません。

それほどたいそうな話でなくても、「あの人は嫌な人」「自分に悪意を持っている」と言う話を聞いて、「こんな状況で、あなたも同じようにするよね」と言うと、どうしても「じゃあ、こちらが悪いっていうの?」と言う流れになります。単に、相手に悪意があるわけでなくてもそんな状況は起きるから、うまく状況を変えてやれば解決できるはずだ、と言いたいだけなのに、なぜか善悪の話になってしまうのです。問題解決の基本手順に「解決につながる枠組み(フレームワーク)で考える」と言うのがあって、善悪で考えるとどうしても善が悪を退治する、とか、悪がのさばる悪い世の中、みたいな話になって解決につながらないのが目に見えているから、そこを外したいのに、「じゃあ、自分が悪いのか」と言われてしまうとどうしようもありません。

「悪意」を持ち出す時点で、ひょっとすると人はすでに解決したくないと思っているのかもしれません。でも、解決できるはずのことをあきらめてしまうのは、とってももったいないことだと思います。とはいえ、あきらめている人だらけの中で一人で「解決できる」と主張し続けるだけの根性もないのですから、まあ、余計なことは言わないでおくべきなのでしょう。
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