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2020年01月26日01:44

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解決法

禅では、公案というものがある。
師匠が、問題を出し、弟子が、それに答える。
たとえば、「生まれたばかりのガチョウを花瓶に入れ、それが成長して、早く出さないと死んでしまう。しかし、花瓶は高価だから、壊してはならない」というものだ。
弟子は、必死に考えて、答えを師匠の元にもっていく。
「師匠、油を入れれば、いいのでは?ツルツルすべって出やすくなります」
「見事な解決法だ。しかし、違うな」
弟子は納得いかない。しかし、師匠が、そう言うならば、認めざるをえない。再び、考えはじめる。
弟子は、ただひとつ、「師匠が、そう言うならば、そうに違いない」と思うことが仕事なのだ。それが、弟子であるということだ。
しかし、あるとき、師匠に答えをもっていかないときが、訪れる。
師匠は、言う。
「やっと、わかったのだな。最初から答えは、なかった」
衝撃的な、一言だ。
答えは、ない。
問題が、なければ、答えは、ない。
創りようがないのだ。
問題が、あれば、答えは、無数にある。捏造は可能だ。
悟りとは、おそらく、それに気づくことなのだろう。
問題が、ないところに、解決法は、ない。
解決法のあるところに、問題は、ある。


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