日本の教育を見ていると、どんな人材を育てたいのか、があまり見えてくることがないです。
時代的に、大学のブランドで決まることがほとんど、という世代で、受験に強くテストの得点力を向上させる教育を受けたので、尚さら感じます。
皮肉にもこれができているのが座学の教育現場よりも、スポーツの世界や体育会系のように思えます。
サッカー選手になるを目標にした時、ドリブル、パス、シュートの個人技ができて、ルールを理解し、さらに個人競技ではないのでチームプレーができなければいけない…と、
「目標達成のために何が必要か」の逆算が成立しているように見えます。
また記憶が苦手だったので、学生時には社会という科目はおぼえるだけで無用の長物と思い、苦手でした。
英単語も同様で、使いもしない単語をいくつも憶えてどうするんだ、とも。
半分だけ当たっていたことがあって、年表や辞書の内容を、端から端まで間違いなく暗唱できるよりも、なんでその政変や戦が起こったのか、和訳は同じだが実質的に何が違うのか、の方が大事で実践的だった、社会に出てから重要だったからです。
ただ世間を見渡すと、みんな相応の教育を受けてきていて、たぶん、学んだ当時のテキスト問題をさせれば、解ける人がほとんどだと思う反面、それが直結している状況にも関わらず問題解決できない人が多いな、と。
極端な例を挙げれば
・英検2級を持っているが会話が苦手で、外国人に道案内もできない
・数学や算数を学んだのに、物体の三辺の定義を忘れている
など。
英語は言語であるので、もともとは他人とのコミュニケーションツールでしかなく、一生懸命勉強してもツールとして使えなければ、道具に使われているのと同じと思っていいのではないかと思います(言語として研究するなら別ですが)。
まとめて考えると日本の教育の成果は、けっこう、
「知識として存在するが教養にまで到っていない」
場合が多いのではないのかと思います。
色々なドライバー、スパナ、ペンチを持っているが使い方がわからない、使っていない道具がほとんど、では実践的とは言えず、今の評価方法は、どんな高級なスパナを持っているか、どれだけたくさん持っているか、の方が強く重要視され、それを可視化して担保するのが各種の資格…のように思えてなりません。
■「やりたくない勉強はしなくてもいい」の断言から考える学校の役割 「できないとダメ」の呪縛
(ウィズニュース - 09月16日 07:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=220&from=diary&id=5790025
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