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2019年12月09日09:07

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アーベルの生涯(オースティンオア,辻雄一訳)

内容:
本著の主人公ニールス=ヘンリック=アーベル(以降ニールス=ヘンリックと書く)はクリスティアンサンド教区のフィンネイでセレン=ゲオルグの次男として誕生。
父セレン=ゲオルグは牧師で、フィンネイでの生活には満足だが転任したいという希望があり、ニールス=ヘンリックが満一歳になるかならぬの時に、同じように牧師だった祖父の管轄教区だったグジェルスタド教区に一家共々移住する。1815年の秋、ニールス=ヘンリックとその兄ハンス=マシアスはクリスティアニア(現オスロ)のカテドラルスクールに入学。クリスティアニアに居を移したのは、父セレン=ゲオルグの名声がグジェルスタド教区で低下し始めたからである。
この学校の利点は奨学金を受けられることで、それはアーベル家の経済を助けた。しかし、当時のこの学校は体罰による教育が蔓延し、校長ヤコブ=ロステッドが体罰を廃止することに成功したが、やがて再び体罰が復活し戻った。そんな中、ある数学教師が体罰を行って生徒を負傷させ死亡させてしまった。これを機にその教師は免職となり、新しい教師がこの学校にやってきた、その人がベルント=ミカエル=ホルンボエである。ホルンボエの数学の知識は教師としてはかなりひいでており、生徒たちに手ごろな問題を解かせて自主的に勉強できるように導くことができた。ニールス=ヘンリックはこのやり方に興味を持ち、自分は他の生徒には難しすぎる問題を解けることにきずいた。数学に前進していくニールス=ヘンリックの姿に、ホルンボエは狂喜ともいえるような表現で報告書に書いている。学校での最後の2年間に、ニールス=ヘンリックは大きな問題にとりかかった。5次方程式の一般的解法である。彼は自分の確信する方法が正しいことがわかるまで、何ども調べた。ホルンボエも、当時の天文学および応用数学の専門家であるハンステーンも、論証の中に、いかなる計算の誤りも、いかなる欠点も見つけることができなかったのである。これをデンマーク科学アカデミーで印刷してもらうようにデンマークの数学者フェルディナント=デゲンに送ることを提案した。ニールス=ヘンリックは送り、査読の結果、デゲンにも計算方法に一か所も誤りを見つけることができなかった。しかし、デゲンはもし論拠が間違っていたにしても彼の才能の疑いはないとし、また一つの数値例を送るように助言した。一方、グジェルスタドのアーベル家に、父セレン=ゲオルグや老祖母の死を境に家計は逼迫し、様々な不幸が降りかかってきた。兄ハンス=マシアスが退学になったのである。入学当初はニールス=ヘンリックより好成績を得ていたが次第に低迷し始め、とうとうクラスで最後の席次まで落ちた。そして、校長のロステッド氏も次のように言わざるを得なかった。「最初、彼は優れた天分を持っていると思われた。また、学校でも家庭学習でも、彼は非常に勤勉であった。しかし、最高学年になった折から彼の心は弱くなり、それと共に、彼の興味と努力は薄れ大学進学の望みは消え失せた。」
経済的なことも考え、母アンヌ=マリーはルンデの農場で暮らす決心をした。この教区からは、少々の年金を受けとることができた。しかし、父セレン=ゲオルグの聖職の後継者ジョン=アース牧師は、多年にわたってアーベル家の面倒を見、彼らが非常に深刻な欠乏状態に陥ったときも手助けをした。
ついに、ニールス=ヘンリックの新しい時期が始まった。苦境にも関わらず家族の支えになると言う決心をしたのである。もはや、グジェルスタドの家は避難所ではなくなった。彼は兄弟を助けるためにあらゆる努力をした。しかし、まだ収入はカテドラルスクールからの奨学金を受けていただけだった。
カテドラルスクール卒業後、大学入学資格試験を受けた。数学以外は平凡な評点だったが、算術と幾何学では最高の評点でだった。彼は大学の自由な校風に喜びを感じていた。しかし、研究する前にまだ通らなければいけないことあった。当時、大学では科学専攻の学生に学位を与える組織がなかったため、すべての学部の学生に哲学試験を受けることを義務付けられていた(通常1、2年かかる共通の入門課程)。この大学には奨学資金のための基金がまだなかったので、資力のないニールス=ヘンリックは早速宿舎の空席と現金の貸与を援助してもらうよう申し入れた。この若い学生の将来性を知っていた大学の幾人かの教授は、個人的に、お金を出しあうという特例の処置をとった。後援者の中には、前述のハンステーン教授、ラスムッセン教授、さらにニールス=トレショウ学長などがいた。とくにトレショウ学長は彼の父セレン=ゲオルグをエルシノールのラテン学校の生徒の頃から知っており、息子のニールス=ヘンリックにも心のこもった関心を持っていた。ニールス=へンリックは弟ぺーデルと一緒に生活するため、大学の評議会に許可を要請した。許可が降りてすぐぺーデルはニールス=ヘンリックのレーゲンセン(ニールス=ヘンリックが住んでる寄宿舎)によんだ。彼は弟と住み、数学の家庭教師をしながら大学生活を送った。
自然科学の大家で、地磁学の研究でその名がヨーロッパにも知れわたっていたクリストッフェル=ハンステーンは、ニールス=ヘンリックの大学にも強い影響力をもっていた。学問上の指導者としてニールス=ヘンリックはハンステーンを頼り、特に精神面ではハンステーン夫人を慕った。彼はハンステーン夫人を第2の母と呼び、いつも彼女の親切心に感謝していた。ハンステーン夫人を所に訪れることはニールス=ヘンリックにとって大切なことであった。その訪問も多く、ニールス=ヘンリック自身も彼女に迷惑をかけてるんじゃないかと思うくらいのものであった。彼女の助力はニールス=ヘンリックにとって度々救いの手となる。
1822年6月、無事試験を終えて、哲学候補資格の称号が与えられたニールス=へンリックは彼オリジナルの研究に着手するようになった。今では重要な科学雑誌『自然科学のための マガジン』もこの頃から発刊するようになった。彼が書いた最初の論文もこの雑誌に発表されていた。
そして、彼は留学を希望するようになり、そのための資金を大学の教授や評議会に請うようになる。そうしてやっと、彼は望み通りの研究を進めることができるようになった。しかし彼は結果をどこで発表するのか悩んだ。これは科学に進む研究者の卵が皆直面する問題であった。そうしているうちにノルウェーの科学会でもあたらしい動きが出始めた。新しい教授グループによって科学の学会が作られることになったのだ。幸運にも彼はこの一グループの一員として参加できるようになった。その中に、後にノルウェー最大の複合山脈ヨトゥンハイメンの発見者、クリスチャン=ボエックとバルタザール=ケイルハウを知る。一方、ニールス=へンリックは評議会の許しを得て、コペンハーゲンへ旅をすることになった。彼はデンマークの数学者とその研究を知ることができるこの機会に、彼は喜んだ。デンマークでのノルウェーの評判はよくなかった。「デンマークの科学者は、ノルウェーではまったくの野蛮が支配していると思っています。そうではないことを説明するために、全力をあげています」とニールス=へンリックは書き綴っている。たくさん会った人の中に、当然デゲンとフェン=シュミッテンとも会った。そして何より彼は最初の旅で運命の人と出会う。クリスチーヌ=ケンプである。ニックネームでクレリーと呼ばれるこの女性は美人ではとても言えなかったが魅力的で活発であった。十日間のコペンハーゲンへの旅の後、彼は主に楕円関数と方程式の理論について研究をし始めた。楕円関数の理論は三角関数の広大な一般化となり、サイン、コサイン、その他の三角関数のよく知られてた法則とよく似ていた、その事にも彼は注目した。一方、5次方程式の解法も彼の関心の的であった。この問題は以前まで既存の方法で解こうとしたが、コペンハーゲンから帰ってきてからは解法を求めるよりも、むしろこのような解法は存在しえないことを証明しようと試み始めた。クリスマスの前から、ニールス=へンリックの研究になされた教授たちの個人的な資金援助も、もはやこれ以上続けることが出来ないことが明らかになってきた。この問題を打開するために他の処置を見つけることが必要になった。彼らはこの事についてもっと検討するように、評議会に対して援助の要請がなされた。これに評議会は晩秋に留学してはどうかと勧めた。それでニールス=へンリックはその為の科学研究上の準備を始めた。彼は、海外、特にフランスの有名な数学者を印象づけるためにフランス語で科学雑誌『マガジン』に論文を寄せた。また、彼は自費で、『マガジン』の発行者であるグレンダールに同じ論文を印刷させるための決心をした。このパンフレット式の論文は現在では貴重なものに数えられるが、当時の外国の数学者たちに受け入れられなかった。ガウスの場合も例外ではなく、彼自身の論文と共に書斎のどこかに散佚されてしまった。理由はおそらく自費出版であるためにページ数を削減し、内容を簡潔化し過ぎたためだと考えられている。
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