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2019年09月21日14:32

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靖國神社にケチをつけるゴミは死ね

■英軍ラグビーチームの靖国神社訪問にネトウヨ大喜びもイギリスで大問題に! タイムズ紙「靖国は攻撃的ナショナリズムの培養器」
(リテラ - 09月21日 07:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=209&from=diary&id=5796862

日本はマスゴミがキチガイブサヨと下等動物糞チョン、チャンコロに席巻されているため、大東亜戦争に関するまともな報道が一切無いが、特亜のキチガイ三国を除くアジアの国々は当時日本軍を大歓迎したのである。

平成12年10月25日、フィリピンのマバラカットとバンバンでは大々的な神風特別攻撃隊慰霊祭が行われた。
関行男大尉率いる敷島隊の零戦5機がマバラカットを飛び立ちレイテ湾の米空母部隊に大打撃を与えたのが昭和19年10月25日。それを記念した慰霊祭だったのである。

日本の慰霊団と共に現地を訪れたジャーナリスト井上和彦さんは、参列していた現地の女子高生たちに神風特攻隊をどう思うか聞いてみた。
すると彼女たちは声を揃えて「英雄です!」と答えた。
「あなた達はカミカゼのパイロットを尊敬しているのですね?」
「勿論です!だって彼らはヒーローですもの!」
さらに引率の男性教諭はこう語った。
「こうした歴史教育を通して、子供達に国を守る事の大切さを知って欲しいのです。」
日本と何という違い!!
情けなくって涙が出てくるわ。。

246万6千余柱の英霊は皆、国の為に死ぬと靖国神社に神として祀られる事を生前約束されて戦いに征ったのである。
英霊の恩恵を受けていない日本人は一人としていない。特にペリリュー島、硫黄島、沖縄戦と、特攻隊の敢闘が無ければ、ヤルタ密約のまま、日本はソ連とアメリカに分割統治されていただろう。想像もしたくないが朝鮮やベトナムの様に代理戦争が起きていたかも知れない。
それを命を賭けて阻止して下さった英霊に生前の約束を果たさないとなると、どうして国が栄えよう?
「この立派な英霊のお陰で今の平和な生活が有る」という事実を一切顧みないで平気でいられる連中は、はっきり言って頭がおかしいと思うのだ。
誰が何と言おうと英霊の御霊は靖国神社、護国神社にある。
シナ、馬鹿チョン、アメ公が何をほざこうが放っておけ。内政干渉だ。靖國神社をdisるキチガイ朝日新聞、リテラ らマスゴミ社員はまとめて死ね!

安倍総理、来年は是が非でも8/15に参拝宜しくです。

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陸軍伍長  清水誠藏命
昭和十八年一月十六日 ガダルカナル島セキロ河東方にて戦死
静岡県志太郡島田町出身  二十四歳
お母さん、最后の書をしたためます。
入営前及び入営后の今日に至るまで、何等孝行らしい事も出来得ず、御世話になるばかりでした。あの歴史的香港攻略戦には、途中矢つき病魔に倒れたは日本男子として、又日本軍人として此の上もなきはづかしき事と、病院の寝台の上にて涙にぬれて眠れない夜も数日続きました。スマトラ攻略を終へ、将又香港の汚名をそそぐべき最后の御奉公する時節到来。
靖国神社にて対面出来る事も、遠からぬ事と思ひます。何卒宜敷く御願ひ致します。此れだけ書けばもう言ふ事はありません。喜んで死んで行ったと、弟妹等にも言って下さい。
では、今度靖国神社にての再会楽しみに待って居ります。
誠 藏
母上様

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陸軍少尉  前田健三命
昭和十九年二月二十四日 中部太平洋方面にて戦死
三重県鈴鹿市一ノ宮町出身 三十二歳
御両親様へ
只、一人ノ幸子ヲ北満迄寄コシテ下サッタ事ヲ、常ニ感謝シテヰマス。
少シノ孝養ヲ尽ス事ナク、カへッテ御心配バカリオカケシテ、申訳有リマセン。
若クシテ夫ニ離レタ幸子。幼クシテ父ト別レタ富美子及来春生レテクル子ノ好(よ)キ父母トナリ、祖父母トナッテ、軍人ノ妻トシテ遺児トシテ、立派ナ日本人ニ育テラレル様、御願申上ゲマス。私ハ今何ノ心配モナク、笑ッテ散リマス。

幸子へ
結婚以来二ヶ年、其ノ間軍人ノ常トハ言ヒナガラ、何等夫トシテノ愛情ヲ傾ケル事モナク、別レルノヲ御詫スル。
充分健康ニ注意シ、御両親ニ孝行ヲシ、子供ヲ有為(ゆうい)ノ士ニ育テラレヨ。
常ニ幾多靖國ノ神トナラレタ人、及其ノ妻、子ノ事ヲ思ヒ修養シ、婦徳ヲ収メラレヨ。次ハ、靖國ノ社頭デ会ハウ。

富美子及来春生レル子へ
父ヲ知ラナイ諸子ハ、可愛想デアルガ、身体ヲ鍛ヘテヨク勉強シ、母ノ言フ事ヲ守ッテ立派ナ日本人ニナレ。母ハ若クテ父ニ別レ、御身等ノ為ニ強ク生キ、凡ユル苦難ノ道ヲ歩ンデキタノデアルカラ、充分孝養ヲ尽クシ、イツイツ迄モ労(ねぎら)ッテクレ。父ハイツモ諸子ノ幸福ヲ祈ッテヰル。

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海軍一等兵曹  楠瀬益實命
昭和十八年十月十二日 ニューブリテン島方面にて戦死
高知県高岡郡戸波村出身
二十三歳
遂に死ぬべき時は来た。
帝国軍人として最大の名誉の時が来た。今より小生は昇天するのだ。
思へば此の世に生をうけて二十有余年、短かくて長き人生だった。(中略)
小生も今死すべき最好機に恵まれたのだ。英米打倒而(しか)して東亜百年の大計、引いては人類の幸福、世界の平和の礎のために之が最適の死に場所だ。肉体は之で永遠に此の世を去る。而し魂は永遠に生きる。
靖國へ行って待って居る。折があったら会ひに来られ度。(後略)
御一同様

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陸軍中佐 岩村宏朗命
昭和二十年二月二十一日 ニューギニア島にて戦死
秋田県平鹿郡睦合村出身 二十八歳
御両親様 
(前略)
大和男児に生れ、軍人となるを得、今や皇國非常の秋(とき)に方り邦家(ほうか)の為、鴻毛(こうもう)にも比すべき数ならぬこの身を捧げ得るを、宏朗は無上の光栄と存じて居ります。(中略)
何れの日か赫々たる武勲の下、靖國の御社に帰る事になると存じますが、若し武勲御気に召さば、忠孝の児に一掬(いっきく)の香(こう)を手向(たむ)けて頂きますれば、私には此の上なき喜びであります。(中略)
國家多事多端の秋、偸安(とうあん)も許さざる今日に於て、御両親様の御辛苦も大なるものありとは存じますが、宏朗の魂魄(こんぱく)は止りて皇城を守り、御両親様を御守り致すことでありませう。御心強く思召下さい。今となりましては更に申上げて遺す言葉も御座いません。遙かに南溟(なんめい)より御両親様の御健康を御祈り申上げ居ります。
頑児 宏朗

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陸軍中尉  伊賀 新太郎 命
昭和十九年七月十六日
比島ルソン島北方海域にて戦死
東京都淀橋区出身 二十六歳
 お母さん、新太郎の大好きなお母さん。笑って下さい。決して泣かないで下さい。新太郎は堂々と闘ったのです。大部分はお母さんの御手柄であります。
 新太郎の行動の後にはお母さんの優しいお姿が何時も付いて居て、新太郎を励まして下さったのです。美しい名も無き野花の真中に打ち伏すとも、キラくと銀色に輝く南海の藍(あい)の底に眠るとも、新太郎はお母さんの懐の中に眠るが如く安らかに眠ります。何も話をしなくともお母さんのお顔を見て居る丈(だけ)で新太郎は何時も満足でありました。
 御心尽しのお守札は最後迄私の傍(そば)にあります。何も書けません。お母さん、新太郎の大好きなお母さん、たくさんの一人息子を国に捧げた人もあります。強く明るく生きて下さい。お祈り致します。伯父様の後に続きます。私共の後に続く者の強き足音が聞えて参ります。日本は必ず勝ちます。
大日本帝国万歳
天皇陛下万歳
新太郎
御母上様

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陸軍衛生伍長 伊藤 甲子美命
昭和十九年七月十八日
マリアナ諸島にて戦死
愛知県北設楽郡名倉村出身 二十六歳
季代子、かう呼びかけるのが最後になりました。短かったけれど優しい妻でした。有難く御礼を申上げます。(中略)折角、永遠の誓ひを致しながら、最後になりますのは何かしら心残りですけれど、陛下の御楯として果てる事は私にとりましても光栄と存じます。
短かい生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき申訳なく死に切れない苦しみが致しますが、すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思ひます。若い身空で未亡人として果てる事は決して幸福ではありませんから、佳き同伴者を求めてください。
私は唯幸福な生活をして頂けますれば、どんな方法を選ばれませうとも決して哀しみません。(中略)どうぞ御健やかに御活(おくら)し下さいます様お祈り致してゐます。さやうなら
昭和十九年五月三日
伊藤 甲子美
季代子様

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海軍少尉 松尾 勲 命
昭和十九年十月二十七日 比島方面にて戦死
長崎県南高来郡愛野町出身 二十四歳
咲くもよし 散るも又よし 桜花
父母上様、喜んで下さい。勲はいい立派な死場所を得ました。今日は最後の日です。皇国の興廃此の一戦に在り。大東亜決戦の南海の空の花と散ります。
大君の御楯となって分隊長を初め、共に潔く死につき七度生れかはり宿敵米英を撃滅せん。あゝ男子の本懐是に過ぎるものが又とありませう。(中略)
二十三年の幾(いく)星霜(せいそう)良く育てゝ下さいました。厚く厚く御礼申し上げます。
今度がその御恩返しです。勲はよくも立派に皇国の為に死んでくれたとほめてやって下さい。ほんとに兄弟の中で私は一番幸せ者でした。喜んで居ります。弟も立派な軍人として御奉公出来る様にして下さい。お願ひします。もう何も思ひ残す事はありません。
父母上様、今度白木の箱でかへります。靖國神社で会ひませう。長い間有難うございました。(中略)
父上様
母上様                                  勲

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陸軍少佐 池亀 重作 命
昭和十七年十一月二十三日 ソロモン群島ガダルカナル島九〇三高地附近にて戦死
新潟県西頸城郡磯部村出身 四十歳
父ヨリ
惠子ヨ、可愛イ惠子ヨ。
父ハ惠子ガ早ク大キクナリ、立派ナ人ニナリ、御國ノタメニ働クコトヲ祈リマス。
母ノ教ヘヲヨク守リ、誰ニモ負ケヌ様ニ、オ勉強シナサイ。
「努力ハ天才ニ優ル」ト言フ事ヲ念ニ収メ、偉イ人ニナッテ母ニ孝行ヲシナクテハナリマセン。父ハ東京ノ靖国神社デソレバカリ祈ッテヰマス。

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陸軍伍長 小塩 久夫命
昭和十九年十二月二十三日 比島北サンフェルナンド北方海域にて戦死
鳥取県西伯郡大高村出身 
二十六歳
(前略)お母様、かうして懐しい御名をお呼びするのも幾度もないでせう。でもお母様、決して悲しんではなりません。久夫は立派な軍人です。母上は、此の久夫のお母様です。(中略)望み叶って、あの靖國のみ社に赴けますならば、香り高く咲きにほふ九段の桜の下でお母さんの訪れを待ってゐます。
何一つとして御手助けもする事を得ず、去り逝く久夫を許して下さい。久夫は勇ましく華と散り逝く覚悟です。久夫、死の報あっても決して悲しんではいけません。泣いては兵の母として何よりの辱です。
白木の箱が届いたら、唯一言「久夫よくやった」と莞爾とほめてやって下さい。お母様が育てた鼻たれ坊が晴れてお役に立つときが訪れたのです。久夫はそれを頼りに喜んで靖國の宮に迎へられます。(中略)ではお母様、末永く御幸福であって下さい。久夫は常にお祈りしてゐます。(後略)
久夫より                                 母上様


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