『大菩薩峠』の主人公机龍之介は複雑な人物である。
圧政に苦しむ庶民のために一肌脱ぐかと思えば、夜な夜な辻斬りをするために徘徊もする。
果たしてこの盲目の剣術使いは、善人なのか悪人なのか。判断に苦しむことがある。
しかしこの善なのか悪なのかはっきりしないところが、机龍之介の大きな特徴であり魅力だという。
何物にも縛られず、心の赴くままに人を斬り生きていく。たしかにその人物像は自由気ままだ。
しかしこのように、人を斬ることを息をするようにこなす人物を主人公に据えた中里介山は何を考えていたのか。
たしかにこれでは、自分は大衆作家に非ずと宣言したのも無理からぬ気がする。
かつて若き吉川英治が編集者に『大菩薩峠』批判を向けられた時、
「そうなんだ。『大菩薩峠』に出てくる子供というのは、あまりに大人びている。
子供というのは、もっと無鉄砲で自由気ままなんだ」
と言及した。机龍之介に対しては、批判はしていないわけである。
だが、後に『宮本武蔵』を世に問うた時、机龍之介とはまったく違う剣士像を造形した。
少なくともここに、吉川英治は『大菩薩峠』を反面教師にしたと思われる節が感じられる。
そこには社会主義詩人として出発して挫折した介山と、生活のため職を転々とした末に懸賞小説に当選して職業作家となった吉川の違いがあるのか。
少なくとも吉川英治には、介山のように一方的に女に惚れられて食べていく苦労はしないという、
男としては一種の理想かもしれないが退廃そのものの人物は死んでも書けなかっただろう。
結局、『大菩薩峠』は何かと問われた時、大衆小説でもなく介山の提唱した大乗小説でもない。
社会主義詩人として社会変革の理想に燃えながら、大逆事件という日本国家による社会主義者を無法に処刑されたトラウマから生まれたもの。
そういった意味で、たしかにこれは転向小説だったのかもしれない。
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