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2020年04月06日20:48

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超大河小説の始まり

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中里介山といえば『大菩薩峠』、『大菩薩峠』といえば中里介山というくらい、この小説家と代表作であるこの超大河小説は切っても切れない関係にある。

後に吉川英治が世に出た時、彼こそが我が国における大衆小説の元祖のように受け取られたが実際は違う。

明治末年に世間を震撼させた大逆事件の記憶新しい大正2(1913)年、都新聞という小さな媒体で連載を始めたことがこのパイオニア的大作の幕開けとなった。

とはいえ、後に「余は大衆作家にあらず」という一文を発表したことからも、介山は大衆小説家ましてや『大菩薩峠』が大衆小説と呼ばれることを嫌っていた。

大衆を啓蒙する意味からも、大衆に迎合して金儲けの手段としての大衆小説をも拒絶していた。

それはかつて社会主義者として、この国をより良く変えていこうと理想に燃えていた青年中里の挫折体験が原因かもしれない。

大逆事件のあおりで、主義者だったというだけで白眼視されたトラウマから来ているのだろうか。

介山の著作にすべて目を通したわけではないので、小生の推測でしかない。

ただ『大菩薩峠』を大衆小説ではなく、大乗小説と呼ぶべきと提唱したのも当時使い始められた"大衆"という言葉にいかがわしさを感じていたためではないか。

物語は、主人公である机竜之助が大菩薩峠で辻斬りを行うという衝撃的な始まりを迎える。

この作品が勧善懲悪という江戸時代の滝沢馬琴が確立した、庶民的読み物の基本から逸脱した点でその後に現れる時代小説とも一線を画している。

同時にそれは、柴田錬三郎の『眠狂四郎無頼控』や笹沢左保の『木枯し紋次郎』シリーズのような虚無的な主人公を据えた戦後の時代小説の源流とも言える。

まだ第一巻をのみ読了したので断言はしかねるが、この作品に何故吉川英治が反発したのか。その後吉川が国民作家になったのと中里の違いはなんなのか。

その謎があるいは解き明かされるかもしれない。



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