杉寅次郎。後に親戚の吉田家へ養子に入り、松陰吉田寅次郎と名乗るこの若者。幼い時は叔父の玉木文之進からスパルタ教育を受け、そのあまりの苛烈さから、
「寅次郎や、いっそお死に」
と現場を目撃した生母が祈ったほどだった。松陰自身も後年、
「あんなひどい目に遭ってよく死ななかったものだ」
と述懐するほど苛酷な教育を受けた松陰は、公のためすなわち長州藩のため身命を賭して働くことを己の人生の主題にしていく。
殺されるかと思うような英才教育を受けた松陰だが、決してひねくれることなくむしろ人が良過ぎるほど人を信じる性格へと育まれる。
山鹿流兵学の指南役として、少年時代から英邁を謳われ藩を背負って立つ人材として将来を嘱望された。
一方藩内における勉学だけでは飽き足らない松陰は、九州にて本場の山鹿流兵学を学びに行く。そして肥後熊本で終生の友宮部鼎蔵(ていぞう)と出会う。
学べば学ぶほど自分には足りない物が多過ぎると痛感した松陰は、江戸への留学を藩に申し出る。松陰の将来に期待をかけている長州は、あっさりとこれを承諾する。
この点がいかにも松陰以下若者に甘い長州藩の特徴とすらいえる。さまざまな塾に通い、つまみ食いするように勉学していた松陰はやがて佐久間象山の塾一本に絞ることになる。
江戸は勉学の他に多くの友人と知己を得たことでも、松陰にとっては有意義な土地といえた。同時にそれは、彼の人生を大きく転回させていく。
友人の一人江帾(えばた)五郎が、仇討ちも兼ねて奥羽旅行へ行こうと松陰らを誘う。仇討ちを行うとしたら、江帾は命を落とす可能性が高い。
松陰は承諾するが、思わぬ落とし穴がこの若者を待ち受ける。
後に幕末の長州の思想的シンボルとなった吉田松陰の若き日々を描いた物語。次巻ではいよいよ、憂国の思いに駆られた松陰が周りを巻き込んでいく。
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