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2019年10月18日06:35

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鎌倉滅亡

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後醍醐天皇の綸旨を秘かに受けた足利高氏。幕府の命により鎌倉から京を目指したものの、その腹中はいつ、どのようなタイミングで幕府を裏切るか、その一点に絞られていた。

徐々に六波羅軍が宮方の軍勢に押され始めるのを見計らって、遂に高氏は決断を下す。

背信といえる足利軍の裏切りで、六波羅軍は帝を奉じて都を離れざるを得なくなり遂には自壊の道を辿る。

一方関東では、宮方征伐から離れ帰郷していた新田義貞が大塔宮の綸旨を受け倒幕の機会を伺っていた。

やがて幕府の高圧的な命令にここが動き時と確信した義貞は、倒幕の兵を挙げる。

そして秘かに鎌倉を脱出していた高氏の三男・千寿王(後の義詮)と遭遇した義貞は、この幼子を一方の旗頭として一路鎌倉を目指す。

が、鎌倉への道は遠い。幕府軍に一旦は蹴散らされた義貞軍はどうにか盛り返し鎌倉への侵入に心血を注ぐ。

攻める軍勢に守る軍。特に鎌倉軍は本拠地を栄螺の蓋のように閉じて、倒幕軍を寄せ付けようとしない。

焦燥に駆られた義貞は乾坤一擲の賭けに出る。賭けは成功し、幕府は徐々に追い詰められ遂に鎌倉内において北条高時以下主だった者が自ら命を絶つ。

鎌倉は焦土と化し、この地で百五十年根付いてきた幕府はここに滅んだ。
戦勝の報は都入りした後醍醐天皇の耳にも伝わり、いよいよ天皇による親政を行う下地ができたと朝廷は喜びに包まれるがー。

足利高氏と新田義貞。同じ祖先の血を引く間柄ながら、いがみ合っていた二人が京・鎌倉と連繋して攻め取ったことによって鎌倉幕府は遂に地上から姿を消す。

しかしそれは新たな争乱の萌芽に過ぎず、後醍醐天皇、大塔宮、楠木正成などさまざまな人たちを巻き込んだ大騒動へと発展する。

今はそんな大嵐の予感を知らぬげに、天皇からの恩賞の沙汰に一喜一憂する宮中の公家や武家の右往左往ぶりが物悲しささえ感じさせる。

後醍醐天皇の一字を拝領して、高氏から尊氏と名乗ることになった主人公の動向に注目。

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