何度も書いて来たことだが、筆者は、こうした公の場に自分のことを書くのが好きではない。そもそも、無名の筆者に、そして、どちらかといえば、たいしたことのない人生を、自惚れたことを言わないなら、とても駄目な人生しか過ごしていないような筆者が、何
都会は整頓されている。都会には空間が少ない。少ない空間を有効に利用しようとすれば、どうしても整理整頓する必要がある。ゆえに、都会にはムダな空間が少ないのだ。ビルとビルの隙間なども、きちんと決められた空間だけを確保して、余裕がない。 ところ
今から考えれば、何の不思議もないものが、子供の頃には、たいそう不思議だったというものが少なくない。 たとえば、夕方過ぎに開店する花屋がそうだった。店先はいつ行っても綺麗だし、ウインドウには豪華そうな花がディスプレイされていた。しかし、いつ
「うちに来れば、不思議なものが見られるよ」 中学三年生の夏休みの終わり頃だった。同級生の女の子にそう言って遊びに来るようにと誘われた。その女の子は筆者の育った貧乏な街の子供にしては、お金持ちだった。街が貧乏なので、お金持ちと言っても、たいし
四階建てのマンション。四階建て八所帯の小さなマンション。所帯数のわりに、マンションの庭はずいぶんと優雅に作られていた。ちょっとした児童公園ぐらいの広さの緑地があり、裏には、マンションからせり出すようにして自転車置き場と物置があった。 しか
工場街の外れに倉庫街のような、空き地だらけの廃村のような不思議な空間があった。ときどき、船を造るための船室なのか、電車か飛行機の一部なのか、とにかく何に使われるか分からないような巨大な部品が大量に積まれたりしていた。 子供たちには、格好の
高校生になっても、筆者の頭の中はエロの妄想しかなかった。まともな高校生ではない。エロ以外の興味など、ほとんどなかったのだから。 ゆえに、学校帰りの電車の中から、それを見たときには、いよいよ自分の頭は壊れたのだ、と、筆者は確かにそう思った。
筆者の子供の頃には、古書店は街の中にあった。駅前とか商店街にもあったが、住宅街の一角で、その周囲には他の店舗など一つもないようなところに、忽然と姿を現すようにして、それはあったのだ。 そして、そうした古書店に限って、エロ本を置いていた。
子供ながらに女の尻ばかり追い回している男と言われていた。女の子が行くところに、意味もなくついて行く。男ばかりなら行かない。自分が少しでも気がある女の子がいれば、なおさらだった。そうした男だったので、当然、女の子にはモテない。そうした男であ
古い木造のアパートで、玄関は共同だった。自分の靴をそのまま玄関に置く、同じ玄関を他人が使う。新しい靴は履いて行けない。アパートの持ち主でさえ、新しい靴を買うと、しばらくは、部屋に持って上がる。トイレも共同で風呂は銭湯。壁は薄く、隣の声は普
四階建ての団地を高層団地を読んでいた頃の話になる。高層団地は石で出来ていた。その高層団地に住んでいたのに、子供時代の筆者にとっては、石の家は珍しかった。家といえば木造と思い込んでいたのだ。 その家はそれほど大きくはない二階家だった。公園と
筆者が子供の頃には、街が子供の目からワイセツを隠そうという意志が脆弱だったように思う。ポルノ映画のワイセツな写真入りの立て看板はもちろんだが、ストリップの看板まで平気で街に立てかけてあった。それは筆者の育った環境が工場街だったというのもあ
館をいう雑誌を作ろうとしている。筆者は窓というテーマで小説を書いていたことがある。また、サロンの状況設定小説には「扉のない家」という、少しばかりホラーの官能小説がある。 館、窓、扉、他にも部屋、キッチン、トイレ、バスルーム、そして、テラス
サロンの雑誌『館』の企画案として、筆者の「お詫び行脚」というのがあった。筆者は、多くの業界関係者、出版もエロも含め、本当に、多くの人に迷惑をかけて来た。その人たちにお詫びをして回るという企画だった。興味はあるのだが、勇気がない。怒られるの
行儀の良いエロ、と、そんな企画を考えていた。別に、エロは無軌道であるべきだとは思わない。むしろ、筆者は、マニア雑誌を編集している頃に、三文ポルノ雑誌の編集者たちに、そっちの読者は行儀が良くていいよな、と、言われたものだった。実際、ただのエ
その昔、他人の雑誌を手伝っていると、しばしば、興味のないことについて書かされることがあった。たとえば、中国茶を喫茶店で飲む、今から思えば飲茶なのだが、その当時は、飲茶があまり知られていなかったので、筆者には中国茶の喫茶店のように思えたのだ