人間といういものは、短い文章を読んだり書いたりいていると、集中力がなくなり、深くものを考えたり、試行錯誤して結論を得ようとしなくなってしまうものなのだ、と、その考え方を筆者は信じている。ところが、この論文が書かれたときの短い文章というのは、おそらく二千文字ぐらいを想定していたと思うのだが、今は、二千文字は文章としては長いと言われたりしているのだ。二百文字でさえ長いと言われることがある。
その論文によれば、集中力がなくなり、飽きっぽくなり、また、怒りやすく、常にイライラした状態となり、それによって精神は不安定になるのだ、と、そうも書かれていたのが、その論理が正しいとするなら、もはや、現代は、世の中そのものがそうした状態となってしまっている気がする。
思えば、昔は一時間の落語なんてものを聞く習慣があった。今は、一分のお笑い芸の連続を楽しむようになっている。音楽でも、クラシックなどの一曲三十分などは長過ぎると好まれず、もはや、ポップスの三分でも長いと感じている人が少なくないようなのだ。
筆者は、こうした場所を利用するには長いものは嫌われるという理由で、二千文字ぐらいで書いて来た。しかし、それも長いと思われるようになり、長いというクレームまでメールで来たりするようになった。その結果として、筆者は、どうせ嫌われるのなら、いっそ、もう、長いものを書いてもいいのではないか、と、そう思うようになったのだ。
さて、そこでやりたいのは「もぬけの殻」なのだ。ただの雇われ編集者、ライターとして、一つの出版社、あるいは、一人の社長を外から、ある意味、ギャランティ未払いのまま逃げられる被害者の立場から見つめた、その記録を六話ぐらいのシリーズで小説として書くというのはどうだろうか。六話。ちょっと、長過ぎるだろうか。
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