作家というものは自分の熱情に他人を巻き込む人たちだと筆者は考えている。作家そのものもそうなのだが、その作品でさえ他人を巻き込んで行く。
では、編集者とは何か。筆者はこう考えている。編集者というのは、他人の熱情に自分を紛れ込ませて行く人たちなのだ、と。
アブノーマルな雑誌に関わっているとき、自分は、こんなところで何をしているのだろう、と、そう思うことがあった。たとえば、女性のオシッコを浴びながら、こんな屈辱的なことをして何が楽しいのだろう、と、不思議になるのだ。あるいは、スカトロパーティの後に、床に張られた汚物まみれのビニールシートを片付けながら、自分は何のためにこんなことをしているのだろう、と、そう思うのだ。しかし、その一瞬前までは、嬉々としてそれをしていたのだ。
つまり、その性癖がSМだろうが、スカトロだろうが、スワップだろうが関係なかったということなのだ。誰かの熱情を形にしたい、と、それしかなかったのだ。それが編集者というものなのだ。それがスポーツだろうと、ゲームだろうと、料理だろうと、学問だろうと、セックスだろうと同じなのだ。
ところが、最近、そうした熱情に触れていない。これがやりたい、これを作りたい、と、そうした熱意のある人がいないのだ。たとえば、お金儲けだけだとしても、儲かれば、なおいいけど、そこそこに食べて行ければ、それでもいい、と、その程度なのだ。料理も不味いものは食べたくないが美味しいものが食べたいわけでもない、と。
どうして、日本人は、こんなにも熱が冷めているのか。
さて、そこで、熱はあっても、あまりにも理解不能で、それに巻き込まれることが、ついに出来なかったという話について書いて行くという企画はどうだろうか。タイトルは「不可解な熱」で、どうだろうか。
大人の幼稚園作りに燃えていた男、ストッキングエロだけで雑誌を作ろうとしていた男、男性器にしか興味のない淫乱女、会話だけのSМ風俗を作ろうとしていた女、熱意は分かるが、ついては行けなかった、と、そんな話を書いて行くのだ。
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