膝が抜けた。もぬけの殻となった大きな事務所を眺めた瞬間に、膝がなくなったような感覚になって、そのままコンクリートの床に膝をついた。なくなった膝で立っているという不思議な感覚となった。五百万円近いお金がその一瞬で消えてしまったのだ。悪いことなどしていなかった。ギャンブルに入れ込んだわけでもない。一攫千金を狙ったビジネスをしたのでもない。真面目に、コツコツと一年以上も月刊雑誌を作り続けたのだ。一緒に仕事をする仲間たちともうまくやっていた。社長のことは信頼していた。その夏には経理のおばちゃんと温泉に行く計画もあった。おばちゃんは十七歳も上だったが、それだけに旅行には期待も大きかった。そして、その経理のおばちゃんは社長の実の妹だったのだから、まさか、温泉に行く直前に会社が夜逃げをするなどとは思わなくて当然だったのだ。
作っていたのはホラーコミックだった。支払いサイドは発売日の翌々月の末。発売日が一か月遅れるため、四か月分のギャランティが消える。さらに、筆者が直接原稿を依頼していた漫画家や作家の原稿料がある。それも含めての五百万円であり、筆者のギャランティだけではなかった。
五百万円など、どこからも出て来ない。あの頃の編集者の多くはその日暮らしだ。何も筆者だけが悪いのではない。編集者などという者は、そんな者たちだったのだ。安定した生活からは、大胆な企画など出るはずもない、と、そう本気で信じていたのだ。だから、多くの編集者たちは自分たちを「山師」と呼んでいた。鉱脈を探して山に入る冒険家のような者だと言うわけなのだ。
「逃げ遅れたのね。私物とかはあったの」
泣きそうになりながらコンクリートの床を見つめる筆者に声がかかった。聞き覚えのある声だった。経理のおばちゃんのそれだ。
すがるように振り向いた筆者は、泣きそうではなく、すでに涙がこぼれていたかもしれない。
「私物は持ち込んでません。慣れていますから」
かろうじて、そう答えた。社長の妹かもしれないが、だからといって、その人に何が出来るわけでも、また、何かしなければいけない理由もないということは、よく知っていた。慣れていたのだ。もぬけの殻に慣れていたのだ。ただ、今回ばかりは失った金額が大き過ぎた、と、それだけだった。
「今日明日の食事とかは出来るの。帰る家はあるの」
「家賃だけなら三か月。毎日食べたら一か月で終わりです」
そんな生活を平気でしていたのである。悲惨な結果に終わる編集者たちをたくさん見ていた。それでも止めなかった。怖いのは飢えて死ぬことでも、家賃滞納でネグラを失うことでもなかった。死ぬことは怖くなかった。ただ、怖いのは本が作れなくなる、それだけだった。そんな人生だったのだ。
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