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2019年10月23日01:03

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三文ポルノ礼賛、その3

「七百円です」
 立ち食いそば屋で一人七百円は贅沢だ。しかし、撮影の仕事を朝八時の集合で行ってきての昼飯である。ブラックと言えばブラックもいいところだった。
 これは、今から四十年近く前の話なのだ。
「天婦羅の三つのせかあ」
 竹輪にコロッケに卵の天婦羅。この年齢になると、ちょっと胃のことが心配になるが、あの頃は平気だった。
「十五分でお願いします」
 しかも、十五分で食べて現場にもどるのだ。それほど撮影は忙しいものだったのだ。スタジオを駆け回り、大工仕事に近いことから、引っ越し業者に近いことまで、何でもやらされた。寝不足の身体、アルコールの抜けきれていない身体を、強引に走らせる。そんな弱った身体に天婦羅三つ。
「この感覚、僕、嫌いじゃないんですよ。まるで三文ポルノですよね」
 その現場はエロ本の現場ではなかった。エロ本の現場でない場所で筆者は自分がエロ本を作っていることは秘密にしていた。エロ本など作らなければ生きて行けない自分を他人に晒したくなかったからだ。卑屈だったのだ。それだけに、そんな現場でポルノという言葉を、普通に使える彼が羨ましかった。筆者などには、ポルノと口にしただけで、自分がその世界に生きている人間だとバレて、皆に蔑まれ、いたたまれなくなって現場を追い出されるのだ、と、そんな妄想しかなかったのだ。
「さっと入って、いきなり食べる。いきなりのくせに、丼いっぱいに天婦羅のせちゃう。ささっと食べて、お腹いっぱい」
 なるほど、まさに三文ポルノ小説である。前菜なんてないのだ。ワインを選んだりもしないのだ。立ち食い蕎麦には水だ。しかも水はテーブルのピッチャーにあるものをコップに入れて飲むのだ。そんな食事は寂しい。寂しいが、しかし、その寂しい分、竹輪も春菊もイカものせていいのだ。コロッケをのせることもしていいのだ。蕎麦に合うとか合わないとかどうでもいいのだ。天婦羅とフライを同時に食べる矛盾などどうでもいいのだ。たかが安い天婦羅で、海老でさえないのに、三つものせれば贅沢した気分にはなるものなのだ。噛み切ることが出来ずに衣と分離してイカだけを口に頬張ることになり、いつも後悔するのに、また、イカの天婦羅を選ぶ。それで満足する。
 あの頃の撮影現場では、もしかしたら、昼飯をゆっくり食べたり、昼飯にきちんとした物を食べたりすることは可能だったのではないだろうか。何しろ、バブルの頃で、経済的には余裕があったし、時間も、そこまで忙しいわけではなかったような気がするのだ。それでも立ち食いで昼を食べさせたのは、時間や予算の問題ではなく、その活気を仕事に持ち込ませようとの魂胆だったのかもしれない。
 思えば、三文ポルノ小説にも、そんな立ち食い蕎麦の活気があったような気がする。やれればいいだけの女が美人のはずがない。しかし、美人。それは蕎麦の上にのったコロッケのような物だったのかもしれないのだ。
 三文ポルノが消えて、官能小説の中で醜いセックスが美しく描写されるようになったが、同時に、世の中の活気も薄れて行ったのではないだろうか。
 活気のない今の世の中。性はあの頃よりも安くなった気がするが、しかし、その一方で、小説の中の性はお高くなったような気がする。これを逆転させるような三文ポルノ小説を復活させてみたい。だって、立ち食い蕎麦屋は、今だって街の中で湯気を灯しているのだから。活気のない今だからこそ。だからこそ……。

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