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2021年08月11日17:16

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杉本美術館へ

8月7日
知多市歴史民俗博物館を たった30分しか観ていられなかったのは、杉本美術館に10時半までに行かなければならない。と、思ったからである。
知多市から 杉本美術館のある知多郡美浜町まで 車で 1時間くらいかかるからだった。
10時半から杉本画伯が使用していたアトリエの公開があり、説明してくれるイベントがあった。アトリエ公開は、毎月第1土曜日だけで、杉本美術館は、今年の10月で 閉館になるというので、ここで行っておかなければ もう見れない。と、思った。
杉本美術館には、以前 行ったことがあったが、わざわざ遠くまで行くのが大変だと思った。今回、知多市歴史民俗博物館に行くことにしたので、ついでに杉本美術館にも行っておこうと思った。

杉本健吉・・・挿絵やデザインの分野でも活躍した我が国を代表する洋画家の一人で、吉川英治作「新・平家物語」の挿絵や、名鉄パノラマカー・名鉄タクシーの車体色、名古屋市営地下鉄や青柳ういろうのロゴなど、数多くのデザインも手掛けた。

「芸〜舞・奏」
杉本健吉は、若いころ岸田劉生に師事しました。ちょうどその頃は、劉生が役者絵や芝居絵を描くようになっていた時期でした。
 杉本は、三味線師匠であった父親の影響もあり、学校時代から芝居小屋に出入りしていて、何の抵抗もなくその世界になじんだといいます。
その一方で、「僕は決して大人の通ぶった見巧者(みごうしゃ)にはならなかった。ただ舞台が美しいと思っただけだった。」とも回顧しています。
玄人的な鑑賞ではなく、舞台を見ての美しさ、音楽的な美しさを、素直に楽しむこともまた、芝居のひとつの楽しみ方かと思います。
歌舞伎にしろ、文楽にしろ、舞踊にしろ、その姿は絵画的であり、その姿そのものが美術であるといえるかと思います。また同時に、音楽だといえるかと思います。そんな姿を杉本は、楽しんで描きました。演じられている人情や物語を楽しみ、音色を楽しみ、そして絵にしました。
 演劇に携わるいろいろな方との交流で、芝居のプログラムの表紙絵も描き、さらには劇場の緞帳のデザインも手掛けました。
 また、奈良の文物に触れる中で、正倉院に伝わる「布作面」(ふさくめん)や胡蝶の舞いにも関心を持ち、絵に描きました。海外にスケッチに出かけるようになると、外国での演舞や演奏にも関心を持ちます。
 舞そのものではありませんが、あでやかな舞妓さんの写生を絵描き仲間と楽しんだこともありました。
 そんな「舞」や「奏」にじかに触れ、すなおに美しいと思い、楽しんで描いた作品の数々を今回ご紹介します。
 作品を描いた杉本健吉と一緒にお楽しみいただければと思います。」」

杉本美術館について

「両界曼陀羅」、「新・平家絵物語」屏風をはじめ、油彩・水彩・素描着色など、初期から現在までの芸術作品のすべてを収蔵。
杉本健吉画伯は以前から芸術作品が収集家によって死蔵されることを嘆かれ、"絵はパブリックなもの"という信念をもっておられました。杉本美術館は、この信念のもとに画伯からその作品の寄贈をうけ昭和62年(1987)4月に開館しました。
当館は二つの常設展示室、企画展示室、和室「杉庵」からなる本館とともに、三つの展示室からなる新館が平成6年4月に完成し胎蔵界・金剛界からなる「両界曼陀羅」、「空海像」を中心に展示をしています。


10時半のアトリエ公開を目指して 杉本美術館に集まった人たちは 15人くらいだった。(私も含めて)
学芸員が説明してくれるのかと思ったら、何だかそんな感じでもない人が登場して、画伯のゆかりの品々を説明し始めた。
絵の具も油絵の道具だけではなくて、日本画の絵の具があったり、小学生が普通に使うクレパスや 色鉛筆、ボールペンなど数多くの絵を描く道具があった。
名古屋の能楽堂の絵を描くにあたって、下絵があったり、お気に入りのポスターが貼ってあった。黒板も 画伯が書いたものをそのまま保存してあったり、花瓶に生けたススキなどもそのままの状態だったので、すっかり枯れたものが入っていた。
紙コップには 目などが描いてあって、ユーモアのある人だったのかな。と、思った。
吉川英治さんのお嬢さんの写真が 額に入っていて、可愛らしい人だった。
挿絵を描いた縁で、お嬢さんの写真があったのかな。
いろんな本もあって、岸田劉生全集とか琳派の画集や、仏教に関する本もあるようだった。何しろ説明する人が とりとめのない話をするので、途中で退出した。
午後3時から コロナウイルスのワクチン接種をしなければならない私だったので、何時までもそこに滞在するわけにはいかなかった。
11時半くらいになったので、まだ展示も観てない状態では せっかく来たのに仕方がなかった。とりあえず展示を観る事にした。

今回の「芸・舞・奏」は、舞妓さんの絵などの展示とともに、大阪・四天王寺「聖徳太子絵伝」の下絵も観た。曼荼羅も観たが、とても細かくて、その中に画伯自身も描いているという話だったが、どこに描いたのかは分からなかった。

画伯の若い頃の自画像も観たが、40歳の自画像が 一番 岸田劉生っぽい描き方だと思った。岸田劉生という人は、確か 40歳くらいで亡くなった人だと記憶しているが、こんなにいろんな人に影響を与えた人だったのかと改めて思った。

杉本画伯は 梅原龍三郎にも師事していたので、そちらの影響の方が強いと思った。

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