講演会の冒頭に、北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖波裏」と「凱風快晴」の絵を映像で見せ、
「皆さんが北斎というと思い浮かべる絵は こういう絵ですよね?」
「でも、これらの絵を北斎が描いたのは、72歳頃で、その15年以上前に名古屋に来たのです。」
京都や大阪に行く途中、北斎が53歳と58歳の頃に名古屋に来ました。
1.名古屋人から見た北斎
北斎は狂歌絵本や狂歌摺物で有名な人だった
狂歌・・・・滑稽でかつ機知に富んだ短歌。天明3年(1783年) 爆発的に流行した
日本各地で愛好家が急増 尾張、三河地方でも
北斎は読本挿絵で有名だった。
読本・・・長編小説 曲亭馬琴(ストーリー)と北斎(挿絵)の名コンビ
「椿説弓張月」 大迫力の絵
「名古屋でも北斎に学ぼうとする者がいた。」・・・猿猴庵が書いている
来名前の北斎ー有名なイラストレーター
北斎は 何度も名前を変えているが、読本で活躍した北斎という名前を使用 北斎ブランド
文化2年(1865年)岡崎の深見佐太郎たちが「狂歌師像集」を作った。北斎に絵を頼んだ。
深見氏は狂歌名は浅倉庵三笑(あさくらあんさんしょう)で、奥さんも狂歌を作って絵にもなっている。
これが今でも岡崎の深見氏が所蔵し、今回の展覧会で観れた。
それは今でも素敵なもので、百人一首のような感じだった。お金をかけて作ったんだな。と、思った。絵の具が良い物を使っているのだろう。
そのことは、北斎が名古屋に来る前の話。
天明3年(1783年) 尾張藩に藩校「明倫堂(めいりんどう)」開校 学術に力を入れた
寛政6年(1794年) 尾州書林仲間・・・尾張藩が公認すれば、自由に出版ができるようになった
1。狂歌絵本・読本など 地方にも北斎ファンが増えた
2.名古屋の出版界が活気に満ちていた
絶好のタイミング
文化9年(1812年)の滞在
鍛冶屋町にあった尾張藩士牧墨僊の屋敷に滞在
ここで「北斎漫画」を作った 全2600図 15編
よく観察して描き、デッサン力が凄い
北斎漫画は いろんな人が真似をした
エミール・ガレ・・・ 金彩にむらさきを配色したおしゃれなカエルになっている
「北斎漫画は名古屋で誕生した!!」
永楽屋東四郎・・・版木は今は京都にある
文化14年(1817年)の滞在・・・・今年でちょうど200年になるので、今年にこの展覧会をやるしかなかった。
「江戸には帰らぬよ。この名古屋はまことによい所で おれの身体には時候も飲食物もよくあっているから」・・・北斎の言葉 サービス精神旺盛の人だった
大だるま絵
「北斎大画即書細図」 高力猿猴庵
入念な準備 版元仲間が世話役をする 紙を継いだのは永楽屋東四郎の菩提寺でやった
三代目永楽屋東四郎が仕掛けたブックセールスイベント
「だるせん!」とは・・・・名古屋の人たちが北斎のことを「だるま先生」略して「だるせん」と呼んだ。
牧墨僊 「やろうとしないでどうやって人の目をおどろかすことができるだろうか」
今回の展覧会で展示されている「おしをくりはとうつうせんのづ」(名古屋市博物館蔵)は、元は牧墨僊(尾張藩士)が持っていた。
この絵は世界で3枚しかない。 ボストン美術館、東京国立博物館とここのもの。
「よつや十二そう」・・・文化の初め頃の作品も 牧墨僊が持っていた。
名古屋の人たちとの熱い交流 絵に対する情熱「だるせん」
この展覧会&講演会で 随分 北斎について人間らしいというか親しみやすい感じがした。
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