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2016年04月30日16:06

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「藤田とランス」・・・カトリーヌ・ドゥロ氏の話

まず、この展覧会を開催することになったことの話。

ランス市と名古屋市が姉妹友好都市。ランスはパリの東にあり、電車で1時間くらいの場所。
人口20万人
ランスの大聖堂は フランス国王の戴冠式を行った所である。

晩年の藤田は、ヴィリエ・ル・バクルにいた。シャンパン会社の社長がパトロンだった。

1959年 72歳の藤田は ランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受けた。

改宗を決めたのは、この地のサン・レミ・バジリカ聖堂で神の啓示を受けたことがきっかけ。

ランスに藤田が設計から壁画、ステンドグラスなどのすべてを手掛けた小さな礼拝堂がある。
「チャペル・フジタ」と呼ばれる。

藤田が1956年にパリのギャラリーで展覧会をした時に、シャンパン会社の社長のルネ・ラルーと出会った。

その時の展覧会では「花の連作シリーズ」を展示していた。

ラルーは シャンパンのラベル用の薔薇のデッサンを藤田に注文し、そのラベルは今でも使用されている。

1958年 バラを持つ少女の絵は、新年の挨拶状に描かれた絵であるが、ラベルに描かれたバラと同じ物である。
 
藤田はカトリックに改宗したいという気持ちになったが、何度も結婚と離婚を繰り返している自分に許されるか自信がなかった。
しかし、1度も 教会で結婚式をやっていないということから、それが許された。

洗礼式に立ち会ったのは、マイエ神父とダニエル神父だった。マイエ神父は 「小さな木の合唱団」を創設した人であり、パリの社交界で知られた人であった。

それから カトリーヌ氏の話は 藤田の洗礼式の話になった。

1959年 10月14日  10時半からランス大聖堂で洗礼式が始まった。
その前日 ランスの新聞のインタビューで 藤田は、「やっと間に合いました。」と、言った。

ランス大聖堂に寄贈したい絵がある。・・・・それが今回の展覧会で展示されている聖母の絵である。レオナール・フジタと改名して初めての署名がある。

当日 200人以上のジャーナリストが集まった。洗礼式には1000人以上の列席があった。列席した人の中に パリのセレブ達もいた。

洗礼式の招待状が 映像で写された。

洗礼式の様子の写真が何枚もあり、それらも映像で見せた。

こんな厳かな教会の中を 何枚も 写真を撮ったということに 驚いた私だった。

物凄く 大騒ぎの 洗礼式だったようだ。

当時の日本ではどうだったのか分からないが、フランス国内では 大きな事件のように取り扱われたようだ。

奥様の君代さんも一緒に洗礼を受けている。大勢の人の中に埋もれて 洗礼を受けている様子が写真からうかがわれた。

洗礼式の後、レセプションがあり、その後で 昼食会もあった。

2つのシャンパン会社が主催していた。

それから「フジタ・チャペル」の話に。

プラートとルネ・ラルーが援助  シャンパン会社のマム社の隣の土地

建築家 モーリス・コージーが フジタの思想・精神を体現化した。

コージーの息子が 当時の書類を保管していた。往復書簡、模型など・・・

1966年3月に 工事が始まった。
 
門のデッサン、フレスコ画の下絵など工事前に すべて細かく描かれていた。

1966年 フレスコ画の製作に取り掛かった。フレスコ画は、下塗りのしっくいが乾く前に絵に具を上塗りしなければならない。素早く正確に描く技術が必要である。

フジタは80歳という高齢で この仕事をした。

ステンドグラスの制作は、シャルル・マークという有名な人がした。

1966年 10月 チャペルの落成式が行われた。その後、ランスへ 寄贈手続きをした。
今は、チャペルの管理は ランス美術館がやっている。
土地は マム社のもの。

1968年 フジタ死去 2009年 君代さん死去  二人の亡骸は フジタ・チャペルに埋葬

2013年 フジタの633作品を寄贈

2014年 デッサン1695点を寄贈  

今回の 展覧会では 150点のうちの三分の一がランス美術館の所蔵品である。

ちなみに、来年には 名古屋市美術館で「ランス美術館 名品展」をやる予定なので、そこで今回展示できなかった藤田の作品も 展示される。と、名古屋市美術館の副館長が言った。










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