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2016年04月24日16:46

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「日本美術と高島屋」・・・・名都美術館

4月24日

今日は、長久手市にある名都美術館に行った。

今回の展覧会は、高島屋史料館所蔵のもので、以前から観たいと思っていた。

でも、大阪ってなかなか行けないので、名都美術館で展覧会をやってくれて嬉しく思っている。

新幹線で行けば大阪は東京よりも近いが、どうも大阪は怖いイメージがある。

関西弁も 言葉が荒い気がして怖い。

前期展示が5月1日までなので、今日行くしかない。と思った。

長久手に行くには、車で出かけた方が便利で、私は高速道路の運転ができないので、連れに運転してもらうしかない。
連れが いろいろ忙しいので、5月1日までの会期ならば 今日しかなかった。

「明治時代、高島屋は京都の日本画家たちに依頼した下絵をもとに美術染織品を製作、内外の博覧会に出品し、それはやがて貿易業へ発展した。
また、明治44年、東西百名の日本画家による展覧会「現代名家百幅画会」を開催したことを契機に、美術品の展示・販売を行う美術部を創設し、現在にいたる。
大阪にある高島屋史料館は、そのような明治時代に関わった美術家たちの作品をはじめ、美術品や資料など2万点を所蔵している。そのうちの日本画のコレクションを中部地区で初めて紹介する。」・・・図録より

「美術染織品の製作に力を注いだ三代新七は、明治15年から京都の画家たちに下絵の依頼を始め、同18年には画工室を創設、おおくの画家を招聘して質の向上を図った。画工室に出勤し染織作品の下絵を描いていた画家のなかには、20代半ばの若き竹内栖鳳も名を連ねていた。
次の当主四代新七は画家たちを引き連れて保津川の遊覧に出掛けたり、正倉院の宝物拝観や寺院の襖絵の写生なども実施し、画家たちの糧となる経験を積ませている。単に彼らを雇い仕事に当たらせるのではなく、素質を磨く環境を整えた雇用の在り方が質の高い美術染織品を送り出していくことに繋がっていった。」

竹内栖鳳の「富士」(明治26年)は、高島屋からの注文でヨーロッパ向けの刺繍壁掛けの下絵として制作された。描かれた前年の明治25年、栖鳳は富士山を直にスケッチする機会を得ており、その成果が迫力ある表現になっている。


横山大観の「蓬莱山」(昭和24年)の絵は、これまで観たうちの絵の中で 一番大きくて立派な絵だった!!
「この絵は、昭和22年、当時の社長飯田直次郎と大観が意気投合したことから、高島屋における戦後初の院展「創立50周年第32回再興院展」が大阪店地下食堂跡で開催されたことに由来する。疲弊した時代に美術の復興を目指して奔走した大観たちにとって、高島屋の協力は心に響くものがあり、その恩義に報いようと大観自らが手がけ高島屋に贈ったのが「蓬莱山」であった。」
この図録の文句を読んで、その心意気が 迫ってくる絵だと感じた。

吉田善彦「桜」(昭和60年)・・・透明感のある色調が特徴で、四曲一隻の屏風に桜の巨木を優美に描出した。これまで「桜」の絵は いろんな画家のものを観てきたが、それらとは一味違う桜の絵だと思った。

東山魁夷「深山湧雲」(1989年)・・・美しいブルーが印象的だった。

平山郁夫「ペルセポリス炎上」(1962年)・・・高島屋で 「シルクロード展」として本格的に展覧会を開催した初めての個展だった。

川端龍子「潮騒」(1937年)・・・四曲一双屏風で、波の迫力が感じられる絵だった。

高島屋は百貨店の発展ばかりでなく、日本の美術界進展にも力を注いだことに、高島屋が社会において果たした役割の大きさを改めて感じた。










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