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2016年04月23日21:10

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鎖国時代の朝鮮関係史の話

4月23日

今日は、早めに昼食を食べてから、岡崎市美術博物館に行った。

午後2時から 「鎖国」時代の朝鮮関係史の講演会があるというので出かけた。

12時半頃に 美術博物館に着いたら、もう講演会を聴く為に列ができていた。

でも、午後1時くらいに行っても大丈夫な感じだった。少し早かったかな。

名古屋大学教授の池内敏氏の話は聴いたことがなかったので、鎖国時代の朝鮮といえば、「朝鮮通信使」の話だとばかり思っていた。

そしたら、実際の講演会は、「鎖国時代の日朝関係史ー漂流民送還問題を中心にして」というタイトルだった。

16ページにわたる論文が資料として渡されて、すっかり大学の講義を聴くような感じだった。

始めに、池内氏が 朝鮮漂流人を研究するきっかけになったことからの話があった。

池内氏は、朝鮮通信使の研究をしたいと思っていたが、鳥取大学に行くことになったので、その研究をすることをあきらめた。朝鮮通信使は、瀬戸内海〜東海道を通っていたので、鳥取では研究ができない。そしたら、鳥取で「朝鮮漂流人之図」という掛け軸を見せられ、漂流について研究をすることにした。

対馬藩の資料がある。

1600年〜1800年代に 中国・朝鮮・日本の間で漂流民の相互無償送還制度が成立し、機能していた。

漂流民本人には費用の負担がなし

しかし、明治維新以降は 漂流民が負担するようになった。

山口県に漂流朝鮮人の地蔵墓がある。亡くなった朝鮮人の墓 漂流民を救助、食べさせてやる。

米の握り飯 衣服の提供、病気の治療 ・・・無名の民衆の営み

春名氏・・・本国へ送り返す制度が整っていた。

漂流民は、1599年〜1872年に約1000件 10000人

漂流地は、対馬、肥前、筑前、長崎などの九州、日本海沿岸、島根県

漁業活動をしている人が主であった。

日本では、漂流地から長崎に連れて行き、対馬を経由して本国へ送還(朝鮮人)

漂流地では、朝鮮語の通訳はいない。長崎で 朝鮮語が通じる。事情聴取 漂流の経過、名前、
性別、積み荷などを把握。


朝鮮では、釜山に送られ、対馬経由で長崎へ連れて行って、地元へ(日本人)

朝鮮の漁民は身振り・手振り  筆談

漁民の話せる日本語 「ちょうせん」「ながさき」

長崎に 対馬藩の屋敷の中に朝鮮人小屋があり、勝手に外に出られない。日本人の見物もできないようにする為に、建て替えることがあり、その図面を映像で見せた。

言葉が通じないトラブル

薩摩藩士25人が永良部島から薩摩へ帰る途中で漂着。1か月 釜山に送られ、長崎に行き、薩摩へ戻った。その漂流人の薩摩藩の武士の安田の日記が残っていて、その話が興味深かった。

安田は絵が上手で、大波にもまれている絵もあった。「海が浅くて、海水の色が黄色。」という記述。船長が 占いをして、東南方向へ行くことにしたら、朝鮮に着いた。

日本人は陸地に入れず、漂流船に留め置かれた。筆談で 現地の役人と話した。

通訳はソウルにいるが、なかなか来てくれない。

お酒を飲んだり、煙草を吸う話や、掛け軸をかけたこと。別れ際に和歌を詠み、短冊にして贈ったこと。

朝鮮人と日本人の交流が温かい話であった。

これまで知らなかった歴史がそこにあった。

中国古典に親しみ、漢文を読む教養がお互いにあったので、そういう交流ができた。

まさか、そういう話が聞けるとは思いも寄らなかった。

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