愛知県図書館でやっと「東京新大橋雨中図」という本を借りた私は、早速 読み始めた。
「最後の浮世絵師」と言われる小林清親について書かれていた。
本所御蔵屋敷の御勘定掛をしていた清親が 江戸幕府が討幕されて御蔵屋敷を官軍に引き渡す場面から始まっていた。
いきなりの始まりで 戸惑ったが、どんどん物語に引き込まれていった。
同僚の堀保太郎が 官軍に殴られるところが出てきたが、静岡市美術館で聞いた話では、小林清親が官軍に殴られている姿を清親が描いた絵があったのを思い出した。
敗者は悲しい。住んでいた家も出て行かなくてはならず、老いた母を連れて 江戸から駿府に行った。
江戸を離れる前に、これまでいろいろ描いてきた絵を 燃やす清親に、母が 「写生帖の1冊だけは 残して。」と言うのを聞き入れ、持って行った。
これまでせっかく描きためた絵を 燃やしたなんて、もったいない。写生帖は12冊あったというのは、江戸で燃やした分は 入っていないはずで、それらが残っていたら 貴重だったのに、と、思われた。
「絵を燃やす清親」も、自分で後に描いていた。
しかし、江戸から駿府に行っても、落ち着いた暮らしはできなかった。漁師のようなことをやったり、撃剣興行をやったりした。撃剣興行とは、剣術の見世物で、清親は 司会みたいなことをやった。
それも長続きせず、結局 江戸に戻ることを決意。
絵で生計を立てるようになるまでのことや、いろんな人との交流。
生き生きとした清親の姿が目に浮かんできた。
河鍋暁斎、下岡蓮杖という写真家、版元、月岡芳年など、いろんな人が出てきた。
版元の注文に応じて 頑張って絵を描いた清親。
ポンチ絵についても、自分が描きたいと 始めたわけではなく、「描いてくれ」という要望があって描きだした。
光線画が売れているうちは、どんどん描いたが、売れなくなって光線画の打ち切りを 版元が言ってきた時に、丁度ポンチ絵の注文があった。
それで、ポンチ絵だったのか。と、合点がいった。
注文があれば、それをやっていくという職人気質でやってきたことだった。
結婚も離婚も 成り行きみたいな感じで、絵を描いていれば良かったような清親だった。
好きな絵を描いて、お給料がもらえれば良いみたいな感じ。
生活の為に絵を描いていた。
芸術家ではなくて、職人だった。
清親の絵について、描写があったが、実際に 展覧会で観た絵を思い出しながら読めたので、「あの絵のことか。」と、思った。
彼の無骨な感じだが、正直に生きてきた生き様に好感を持った。
4月に 東京の 太田記念美術館で 清親の展覧会があると聞いたので、また観に行くつもりである。
この本を読んで、小林清親という人に 親しみの気持ちが生まれてきた。
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