ルネ・マグリットというシュール・リアリズムの絵描きをご存じだろうか?
その名を知らなくともきっと曇天と海を背景に青空が鳥の形に抜けたこの絵をご存知な方は多いだろう
この絵画は僕は子供の頃から強烈に好きだというわけではないんだけど、今から8年前の震災の日からそのイメージがずっと頭にこびり付いていて・・・
それは多分、曇天の海というのがあの日の風景を想起させたんだとも思うんだけど・・・
僕は8年前の3・11翌日のつまり3・12に散らかったオフィスを片付けながらオマージュ作品を作った。
この作品は佐野元春さんの名曲「サムデイ」のセルフアンサーソング(と思われる)にあやかって「レインボー・イン・マイ・ソウル」と名付けた。
その曲の歌詞「無くしてしまう事は悲しい事じゃない」であるとか「破れた胸のどこかで輝き続けるレインボー」とか・・・その歌詞にいちいち共感を覚えた。
それは例えば「悲しみ」や「喜び」であるとか「生」や「死」であるとか、或いは「自然」と「人為」が単純に対立拮抗しているわけではなく、二律背反っていうのかな?むしろお互いがお互いの存在を際立たせているように思えたのだ。
そう、僕の作品の多くはこのコンセプトで作られている。
震災の直後から何か作らなきゃで始まっているのだから、即ち発端が破壊の中の創造なので、当然といえば当然なのだが・・・「終わりは始まり」「瓦礫の中のゴールデンリング」
佐野元春さんの歌詞にも同様のコンセプトを感じる。
「手遅れと言われても口笛で答える」「心の中はヘビーレイン、でも顔では大丈夫、大丈夫・・・」「大抵の事なら乗り越えてきたのに、最後の答えは聞かなくてもわかっている」「行くあてがどこかにあるわけじゃないけれど、ここにいるわけにもゆかない」佐野元春さんの詩は必ずしもハッピーではないがどこかに悲しい状況に背反する希望を感じる。
台風19号が各地で猛威を振るった渦中・・・僕は千羽鶴を折っていた。
折り紙なんて昔は全く興味がなかったけど、これも震災後僕が始めたことの一つだ
つまり「折る」という字が「祈る」という字に似てるというダジャレなんだけど、実際に祈るという行為は折り紙を折る所作によく似ているし・・・無心になって折紙を折っていると、それはあたかも祈りのように「折れ」そうな心を補強してくれるようにも思える。
さてこの千羽鶴・・・・
僕は最終的に絵画のフレームにはめ込んでそこからあふれ出す作品にしようと思う。
レインボー・イン・マイ・ソウルの派生作品だ。虹色の千羽鶴がフレームからブワッと溢れ出す作品だ。
そして出来ればそこで折紙のワークショップを行い、みんなの作品を並べてみたい。
このフレームには出来れば実際に水害に遇われた罹災品のフレームを使いたい。
例えば今の段階でこの作品はきっと堤防が決壊し溢れた洪水を想起させるから不謹慎であるとか・・・いう人もいるだろう・・・別に外野がどうこう言おうと気にしないんだけど、仮にちょっとでも現地で罹災なさった方が精神的に厳しいと思われるのでは時期早々である。
今、被災地では仮設住宅が整備されてきているのでもしかしたら、雪が溶ける春先が時期としてはいいのかもしれない。
今はきっと川が憎いって思うだろう・・・自然が憎いと思うだろう・・・
ただ一方で自然の恵みってやつも痛いほどわかっているはずなのだ。
僕自身がそうだったから・・・
平野っていうのは河川が切り開いてきたんだとか、あらゆる生命っていうのは海から発生しただとか・・・うるせーよ!!んな事は百も承知だ!!って。
そんな事は外野にとやかく言われたくはない。
自然憎しって思う自分の心が悲しく、とても苦しいのだ。
それは一種の近親憎悪なのだ。
人間は自然の一部だからだ。
慰めや癒しなんかいらねーよ!
そんなもんじゃ超えられない。
無くしてしまう事は悲しい事じゃない。
輝き続けてるいつの日も
無くしてしまう度に君は強くなる
輝き続けてるいつの日も
There's a rainbow in my soul
破れた胸のどこかで
輝き続けるレインボー・イン・マイ・ソウル
幸せの夜明けのために
さよならブルー
さよならブルー
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