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2019年11月19日11:43

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読書紹介1869●「ナポレオン3−−転落篇」

●「ナポレオン3−−転落篇」 佐藤賢一著 集英社 19年版 2200円
 本書で完結である。ナポレオンは「革命の申し子」として登場した。それは痛快きわまりない人生だった。一介の軍人にすぎない若者が、己が努力と才能で出世(彼は夜も寝ないで、勉強も仕事もできた。陸軍兵学校では「飛び級」で卒業できた)していく。少なからず強運にも恵まれて、やがて政治の世界も制する。それも皇帝として自ら君主の位に就いたのだ。
 ナポレオンが全盛の時、西ヨーロッパを制しそれを家族と愛人とで分け合った。弟をオランダ王に、兄をスペイン王に。自分はイタリア王も兼任した。ポーランドの愛人のために、ポーランドを独立させもした。ロシア皇帝とは「秘密条項」で、「2人で世界を分割」する約束をした。すなわち、かっての西ローマ帝国はフランスが、東ローマ帝国をロシアに。
 しかしロシアが「対フランス同盟」に参加し、フランスに敵対した。イギリスに対抗する「大陸封鎖令」で、イギリスとの貿易が阻止されたため、ロシアを始めとした各国の経済が低迷したため寝返ったのだ。
 そこでフランスの「大陸軍」は60万の軍勢(プロイセン・ポーランド・ザクセン・オーストリア軍も参加)でロシアを攻めた。破竹の勢いでモスクワまで攻め込んだが、ロシアはナポレオンとの直接対決を避け、「焦土作戦」を展開した。モスクワも焦土に化し、訪れた冬期に60万軍勢は虚しく帰還せざるを得なかったが、自然の猛威に晒されたのと、各国の軍隊が途中で逃亡したことで、パリに生還したのは4万となった。
 しかも、寝返った各国が「反フランス同盟」に参加し70万の軍勢がパリへと向かった。ナポレオンを追いかけてきたのだ。ということで、ナポレオンはパリで退位を余義なくされ、エルバ島(イタリアとコルシカ島の間の小島)に流された。
 その後、フランスではブルボン王朝が復活(ルイ18世)したが、憲法も制定せず市民の評判が悪く、1年弱でナポレオンはパリに呼び戻されることに。一滴の血も流すことなく再び帝位に就くが、70万の同盟軍には敵わず「100日天下」で敗れ、南大西洋のセント・ヘレナ島に流された。ここで胃がんのため、52歳の生涯を閉じたのでした。

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