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2020年07月04日22:51

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『いま世界の哲学者が考えていること』

『いま世界の哲学者が考えていること』 岡本裕一郎著、 
ダイヤモンド社、2016年。

20年ほど前にも似たタイトルの本があった。
What Philosophers Think Now(2003)と 
What More Philosophers Think (2005)の2冊。
インタヴュー形式で各哲学者の目下関心のある事柄について
語ってもらっている。
  本書は岡本裕一郎氏が独自にこの二冊に取り上げられて
いない哲学者を紹介しているが、私的には20世紀から
現在の哲学的動向を踏まえた視点に興味がわいた。
以下、関心のあるものを挙げてみたい。

第1章 第2節
メディア(媒体)としての「緑色の眼鏡」について。
緑色の眼鏡はHeinrich von Kleistの書簡に出てくる。
Man sieht seine eigene Brille.というドイツ語の諺がある。
誰もが独自の眼鏡を掛けていて、見方が違う。
「十人十色」という意味。
Manfred Schneiderはすべての人が緑色の眼鏡をかける
という考えをハインリッヒ・フォン・クライストから借用。
すべての人が一定の見方をすると想定し、一定の見方が
可能だとする。これをメディア(媒体)とみなすと、
カントの場合の媒体は「悟性のカテゴリー」、
20世紀言語論的転開後は「言語」が媒体、
21世紀ポスト「言語論的転回」においては、
音声言語、手書き文字、書物や映像、コンピュータと
いった伝達技術が媒体である。

My remarks 20世紀の小説論に出された自動書記、
「作者の死」は、一部「緑色の眼鏡」を先駆けていたのか。

第1章 第2節 〜 第3節
ポストモダン以後の時代を示す哲学的立場としての新実在論を
提出するフェラーリス
ポストモダンで頂点に達する言語論的転回は、カントの
「コペルニクス的転回」から始まっている。
「悟性」を存在するものに先行させたからだ。
これをフェラーリスは「フーカント(フーコー+カント)と茶化
している。フーカントはさらに「デカント(デカルト+カント)」
にまで淵源を求められると言う。
どちらも存在は思考によって構築されるという「構築主義」だからだ。
構築主義が20世紀末のポストモダニズムのエッセンスだった、
というのだ。実在論的転回はポストモダニズムを思想的に
葬り去ろうという動きである。

新実在論とは具体的に何か? 
以下の例をマルクス・ガブリエルは挙げている。
アストリッドがソレントにいて、ベスビオス山を見ている
のに対して、あたしたち(あなたと私)はナポリにいて、
ベスビオス山を見ている。
 古い実在論(これをガブリエルは形而上学と呼ぶ)によれば、
ベスビオス山のみが唯一存在。
この山がソレントから、またナポリから偶然に見られる。
「構築主義」の立場は、「アストリッドのベスビオス山」、
「あなたのベスビオス山」、「私のベスビオス山」だけがある。
この三対象以外に他の対象や物自体はない。
ガブリエルの「新実在論」には四対象がある。
ベスビオス山、ソレントから見られたベスビオス山(アストリッドの場合)、
ナポリから見られたベスビオス山(あなたの場合)、
ナポリから見られたベスビオス山(わたしの場合)である。
ガブリエルはこれらすべてが存在すると考える。
さらに「火山を見ているときに感じる私の秘密の感覚でさえも事実」
だと述べている。
 ガブリエルによると、古い実在論は「見る人のいない世界」のみを扱い、
構築主義は「見る人の世界」のみを扱う、それぞれ現実とみなす。
「新実在論」ではどちらも扱う。
「世界は、見る人のいない世界だけでもなければ、
見る人の世界だけでもない。これが新実在論である」。
物理的対象だけでなく、それに関する「思想」「心」感情」「信念」、
さらには一角獣のような「空想」さえも存在すると考える。
従来の科学的存在のみを確かに存在するとするのでなく、
思考の働きに関わってくるものをも存在するとするのである。
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