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2020年02月18日09:08

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本棚255『蝉しぐれ 下』藤沢周平(文春文庫)

 上巻では、藩の権力争いによる父の死の後の不遇な生活の中、一心不乱に剣の修行に励む文四郎の姿が痛々しかったが、次第に光明が差してくる。その平穏も束の間、文四郎も藩の派閥の暗闘に巻き込まれる。かつて互いに淡い恋心を寄せていたお福、今は藩主の側室となった彼女が産んだ子を奪うようにとの命を家老から受けた文四郎は、お福の子どもも文四郎も亡き者とする罠であることに気づき、ある行動をとるー。

 全てが終わり、藩内の対立もなくなった後、終章では二十年余の歳月が過ぎている。藩主も世を去り、お福が髪をおろす間際の蝉しぐれの中、文四郎とお福は再会する。ともに行った熊野神社の夜祭りの想い出、蛇に噛まれ文四郎が血を吸い出したお福の指、お福が江戸の藩邸に行く前の夜の運命のすれ違い。「文四郎さんの御子が私の子で、私の子供が文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか」「でも、きっとこういうふうに終わるのですね。この世に悔いを持たぬひとなどいないでしょうから」お福と文四郎との静かな言葉のやり取りが心に染み入ってくる。映画よりも感情を抑えた表現が、かえって哀感を増している。ただ、そこには暗さはなく、穏やかな光が満ちている。

 人生のある時のある選択によって、運命の流転によって、絶えずひとは翻弄される。苦しい状況にあるひとはもちろん、たとえどんなに今が幸福であっても、ありえたかもしれない他の人生を思わないひとはおらず、それゆえに『蝉しぐれ』は、多くの読み手の心をひきつけるのだろう。
 ままならない運命を、悔やむのでも、恨むのでも、忘れるのでもなく、自身の心の底にひっそりと抱え、ひとは生き続ける。「もう戻らない時を小さく祈っている」というある歌の歌詞を思い出した。
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