『パラサイト』に持っていかれたとはいえ、アカデミー賞候補作として大きな話題を呼んで上映中の『1917 命をかけた伝令』と時を同じくして公開された、第一次世界大戦のドキュメンタリー映画。
僕も含めて、おそらく予告編をご覧になられた誰もが驚いたのではないか。
あの頃に撮影された映像がカラー着色で、あたかもデジタル機材で撮り直されたかのようにリファインされているだけでなく、動きも全く自然。これには説明を要するが、当時の撮影は手回しクランクで、しかもワンモーションが15〜17コマだった(普通は24コマ)。
だから大昔の記録映像や、チャップリンなどの喜劇映画の、あのチョコマカした動きになるのを、コンピューターVFXを駆使してそれを見事に「蘇生」 なんとハイテクおそるべし!
僕が観ていて、その効果をいちばん痛切に感じさせられたのは、来たる総攻撃の命令を前に待機する兵士たちの不安げな顔。
最近作られた劇映画かと思うように鮮やかな映像だけど、もちろん俳優の演技では無い、まさに「リアル」そのものなのである。死の恐怖を押し殺すかのような心もとない表情を浮かべていた彼らは果たして生きて帰ったのだろうか?と、観る者の胸に迫るものがある。
もちろん、最前線の過酷な状況だけでなく、ローテーションを終えて(前線任務が4日交代なのもこの映画で知った)後方で休息する彼らの寛いだ表情も印象的。束の間の生を出来るだけ謳歌しようとするのが涙ぐましい。
このドキュメンタリー、戦史的な説明は一切ありません。語られる全ては兵士たちの証言。それが映像と共に夥しく聞こえてくる。その録音が残っているの?と思いきや、実は口述記録を吹き替えたもの。しかも証言者と同じ出身地の人を当てるだけでなく、映像で喋っている兵士達の唇の動きを解析して、それをもアテレコするという凝りよう!
戦争は悲惨。という認識が生まれたのがこの大戦だったのです。
それ以前の南北戦争も日露戦争も夥しい死者と惨害をもたらしたけど、それが広く知らされることは無く、戦争は勇ましくカッコいい幻想がまだ生きていた。
愛国心にも絆され、何も知らない10代の若者が次々と志願した。
「戦争といえば、槍を構えて馬に乗って突撃するイメージしかなかった」
「冒険みたいなものと思っていた」
そこで待ち受けていた「現実」・・・
そして、ようやく生き延びて復員しても、彼らの過酷な経験に耳を傾ける者はいなかった。
「同情は無意味だ。なぜなら同情じたいが理解していないことになるからだ。」
それは後のベトナム戦争、あるいはイラク戦争と同じではないか、と愕然とする思いです。
こんな労作を作り上げたピーター・ジャクソンの熱意に頭が下がるばかりだ。実は彼のお爺さんもこの大戦に出征していたから、ジャクソン監督にとっては念願の思いだったのかもしれません。
【予告編】
https://youtu.be/OzRHwrrvW6E
〈テアトル梅田で公開中〉
この映画の手法はいわば「オーラル・ヒストリー(証言集)」だ。僕はその種の戦争体験本をいろいろと読んできたのだけど、つまりは「人の数だけ戦争がある」ということに尽きると思う。様々な事実が見えてくる。
おそらくその金字塔と言っていいのが、後にノーベル文学賞をジャーナリストとして初めて獲得したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』だと思う。
https://mixi.jp/view_item.pl?id=3842935
違うレビュワー氏が指摘されてるように、人の記憶は曖昧で修正を伴う場合が多いことに留意しなくてはいけないが、それでも彼(彼女)らの声は遺しておかなければいけない。
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