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2020年07月25日11:43

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「マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法」(オリヴィエ・ベラミー・著/藤本 優子・訳)読了

アルゲリッチのファンやコアなピアノ・マニアだけでなく、広くクラシックファンにお薦めしたい。とにかく面白い。

著者は、フランスのジャーナリスト。ラジオ、テレビの音楽番組を担当し、取材手腕には定評があり、また、その天衣無縫な語り口で人気を博す。難関のアルゲリッチの取材インタビューに成功したがそれに満足せず、まとまった本にしたいと申し込むと『自分のことには興味はないのよ!』と突っぱねられた。そこで、彼女をよく知る人たちに取材して本を書きたいと再度申し出ると『それならいいわ』と…。

マルタの母ファニータ・アルゲリッチが収集した記事や資料にくまなく目を通し、多くの人々に取材し、ブエノスアイレスを始め彼女がかかわった世界中の街へと足を運んだという。実際、本書はそうしたマルタと彼女をめぐる人々(驚くほどの著名人の数々)のエピソード満載で、さながらアネクドートの宝箱のようだ。


マルタ・アルゲリッチの両親は、学生運動で知り合ったインテリ同志だが、父親は保守、母親はばりばりのペロニスタと政治信条は真反対。幼いマルタは先進的教育の保育園に預けられる。同組の男の子が、いろいろとけしかけて、ついに、ピアノを弾けるか?と挑発する。負けん気の強い彼女は、初めて触れるピアノでいつも保母が弾いて聴かせてくれる子守歌を弾いてみせた。これを傍で見ていた保母が驚愕し、母親に告げる。「あなたの娘は天才だ!」天才ピアニスト・アルゲリッチの誕生の瞬間だ。

母親は、その才能に夢中になる。そのことは、やがて家庭を崩壊させていく。弟は自分もと必死にさらった練習曲を弾いてみせるが、姉はそれを鍵盤に背を向けて弾いてのける。フリードリッヒ・グルダに弟子入りするために、外交官の父親はウィーンに任を得る。母親は彼女を支配したがるが、自由になりたいマルタとは諍いが絶えない。やがて帰国を希望した父親と母親は離婚、一家は離散する。

ミケランジェロに弟子入りするが冷遇され、崇拝するホロヴィッツに会うためにニューヨークに仮寓するが巨匠は素っ気ない。このとき、彼女は、すでにジュネーブ国際の覇者となり、ドイツ・グラモフォンにもデビューしていたが、24歳でショパン・コンクールで優勝するまで、その行状はまさに波瀾万丈で職業演奏家としての自覚もまったくなかった。本書が「ショパン・コンクール」にたどり着くのは、ようやく第11章に至ったところで、もはや全体の半ばを過ぎようというところだ。

極度の上がり症で、自身の家庭崩壊の反動なのか、とにかく自分に多数の目が集中することを嫌悪し恐怖する。苦悩に身をよじらせて「だめよ、無理」と泣きじゃくる。すでにキャンセルぐせは彼女の伝説となっていたが演奏依頼は引きも切らず、演奏するまで契約書にサインをしないという特権を得ていた。

彼女にとっては、同業の音楽家たちは、崩壊した家庭の代償だったのだろうか。その交友や交錯する恋愛は、まるで中学生か高校生のクラスメイトとかグループ交際のようで、彼女の住居はそうした若い音楽家たちが自由に出入りする部室か、雑魚寝する合宿所の様相を呈している。「若い才能の発掘」への熱や、くすぶっている親友や後輩をとことん面倒見るのは、母親から引き継いだDNAなのだろう。視線の集中への恐怖は、やがて、ソリストからの撤退へと導くが、一方の梁山泊気質からは室内楽やピアノ・デュオという新たな豊穣な音楽世界が拡がっていく。

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アルゲリッチにとって『世界は「日本とそれ以外」となっている』という。またも「日本エキゾチシズム」かと思うが、読むとなるほどと思う。気分屋で奔放な自由人アーチストが、規律正しさを重んずる日本にこれほど順応し、夢中になることは七不思議としか言いようがない。

71年に日本デビューした“アルヘリヒ”は、浜松など地方都市巡回ばかりで決して成功とは言えなかった。二度目の来日は73年のことで、夫シャルル・デュトワに疑惑を抱いていた彼女は、その旅行カバンからチョン・キョンファの恋文を暴き出し半狂乱となり、さっさと日本を離れてしまう。

著者によれば、『日本で演奏会をキャンセルするとあとがないほどに大変なことになる』という。それは極東の国では同格の代演者を呼ぶのが困難で、そうなると、『日本の主催者は情け容赦がなく』なるからだ。あのミケランジェロは持ち込んだピアノを差し押さえられたという。彼女も永久追放の憂き目寸前だった。ところが、彼女は、翌年、再び舞い戻り28日間で14の演奏会を行い旅費も含めて1円たりとも受け取らなかった。その後の日本は、この黒髪の天才ピアニストへの永遠の恋に落ちる。その人気は、マウリツィオ・ポリーニと2分するころになる。

別府での音楽祭は、彼女自身にとってかけがいのないものだ。マルタは、祖国アルゼンチンでも「アルゲリッチ音楽祭」を立ち上げている。しかし、石油暴落が招いたアルゼンチンの経済危機によって音楽祭は危機に瀕する。彼女は自ら欠損を補填、資金を投入して継続することを表明するが無残に挫折する。楽団員のストによる中止で、彼女が心を寄せていた「左」の人々からの裏切りだった。同じ年、勲章嫌いのはずのマルタは、自分を裏切った祖国とは地球の真反対の国・日本で、旭日小綬章を天皇からしおらしく受け取っている。日本が…というよりも、《日本のマルタ》は不思議のマルタなのだ。

こうしたエピソードが夜空の星のように数え切れない。読後には、なんとも言えないアルゲリッチ愛と彼女の音楽的足跡への愛着が、ふっくらと膨らんでいた。




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マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法
オリヴィエ・ベラミー (著)
藤本 優子 (翻訳)
音楽之友社

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