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2019年12月22日10:42

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「あちらにいる鬼」(井上荒野 著)読了

ひさびさに「私小説」の面白さを取り戻した。

人気女流作家の長内みはるは、戦後派作家・白木篤郎と知り合い、男女関係になる。白木の妻・笙子は、夫の自堕落な淫行を見て見ぬ振りをし、みはるとの不倫関係をも薄々知りながらも、妻として母としての平穏な生活を送っている。

小説は「みはる」と「笙子」の互いの《わたし》という一人称で綴られる章で交互に語られる。いわば二重の「私小説」となっているが、決して作家自身の視点が《わたし》となっているわけではない。その意味では、《フィクション》という虚構の構造が殻のように覆っている。

しかし、小説のモデルは厳然としていて、「みはる」は、瀬戸内寂聴(俗名・瀬戸内晴美)であり、「篤郎」は、井上光晴であることを、むしろ、隠さない。物語は、「みはる」と「篤郎」の出会いと不倫関係に始まり、「みはる」の出家(以降、「みはる」は「寂光」となる)によるそういう男女関係の清算を経て、「篤郎」の癌との闘病とその死にまで至る。

そこには、瀬戸内の出家のいきさつなどすでによく知られた事実だけではなく、瀬戸内が日頃から井上の添削を受けていたことや、井上の作品の一部がその妻の代筆だったということまでも暴露されている。

いずれも当事者だけが知りうる事実の証言であり、この「私小説」のリアリズムを否が応でも高めている。「篤郎」が闘病で苦しむ様子などは、何もここまで書かなくたってというほどで、いささか「私小説」に倦むところがある。あまりの生々しさと、嘘だらけでどうしようもなく女に自堕落だった男が死の病に苦しむ末路と、それを、ある種、平然と見つめる妻と元恋人との三者の異様な関係に、読み進める気持ちが萎えてしまう。

ところが、そのリアリズムからウォーターマークのように浮かび上がってくるのが、第三の《私》の存在だ。

もちろん、それは、井上光晴の実子であり瀬戸内寂聴とも深い親交のある作者自身の《私》だ。小説では、幼子からやがて親の血を引いて若手作家へと成長する「海里」のことであるが、小説では決して「海里」は自らの視点は持たない。

ところが、読者である私をたじろがせ、リアリズムの冗漫ささえ感じさせ、いささか倦むところがあった「篤郎」の闘病こそ、この小説の構造的転換点で、やがて、この奇妙な男女関係の最終章へと導いていく。

すなわち、この小説は、さらに三重の「私小説」となっていたのだ。作者はどうしてもこの最終章にまで読者を連れてきたかったのだろう。読後に不思議なほどに爽やかな、吹き抜ける風のような読後感を残すのは、その三番目の隠れた作者自身=「わたし」があるからなのだろう。「私小説」の新境地だと思う。


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あちらにいる鬼
井上 荒野 (著)
(朝日新聞出版)

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