mixiユーザー(id:26897873)

2019年09月04日00:10

158 view

「昭和16年夏の敗戦」(猪瀬直樹著)読了

石破茂衆議院議員が強く勧めるので読んでみた。

日米開戦の直前、総力戦研究所なるものが内閣のもとに創設され、若手エリートが集められた。彼らが予測したのは、日本の惨敗だった。しかも、その敗戦に至る経緯をほぼ正確に予測していたという。

その施設では、種々の座学や中国など国内外への出張調査を実施しながら、一方で彼らを机上の『内閣』に任じてシミュレーション(机上演習)を行った。その『内閣』は閣議などを通じて、日米交渉や開戦の是非を論じた。そして、彼らの結論は、現実の政府決定とは真逆の「開戦の回避」だった。彼らが事態の帰趨として予測したものは日本の惨敗。しかも、その敗戦に至る経緯をほぼ正確に予測していたという。

日本は決して盲目だったわけではない。多くの為政者、軍人も民間人も、実は、冷静に日本の国力の限界を認識しており、米国と戦端を開けば、すなわち敗北が必至であることを予知していた。

それでは、なぜ、あの“無謀な戦争”へと突き進んでいったのか?

この総力戦研究所の主管トップは、開戦を決定した東条英機首相その人であった。東条は、所員の入所式などの式典にも隣席し、そのシミュレーション(机上演習)結果の発表にも立ち会い、講評を論じている。それでは、なぜ、ほぼ並行して進められた意志決定の結論は真逆だったのだろうか。本書は、その東条にスポットライトをあてている。

それによれば、東条は、陸軍相としてその崩壊に手を下した近衛内閣の後継に指名される。優柔不断の近衛に換えて、対英米開戦を主張する陸軍を当事者トップに据えれば開戦論を抑えられると読んだ、昭和天皇と木戸の浅知恵だった。大命降下を予測だにしなかった“忠臣”東条は真っ青になり、天皇の言葉に震えてかしこまったというが、開戦方針の流れのなかではなすすべもなかった。

東条は、戦後の東京裁判で、内閣総理大臣は絶対的権限を持っていたわけではなく、統帥権という軍事的絶対権限との間で権限を二分しており、最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議)や御前会議は、そうした二権間の調整調和を追認する儀式に過ぎなかったという趣旨を証言した。そのことを突き詰めれば天皇責任に及ぶので、証言をすぐに転換し、その後は「自存自衛」の大義を主張することに終始する。

そういう決定意志不在の「調和」の儀式は、政策転換には無力で開戦を抑止できなかった。総力戦研究所のシミュレーションでは、戦争遂行能力の基本である石油の枯渇を予測した。実際の最高指導会議では、星野直樹企画院総裁が「南方インドネシアの原油を取りに行けば石油は持つ」と言って、具体的な数字を上げた。官僚が、政府と軍双方の顔が立つように、適当につじつまを合わせた数字だった。これが開戦への決定的な岐路となり、日本は仏印に進駐し真珠湾攻撃へと連なっていく。星野は、開戦反対論者として木戸の懇請で東条内閣に残留した人物だった。その東条だって、もともとは、軍務課の南方侵攻の進言を「石油を盗めというのか」と一喝したことがあるそうだ。総力戦研究所のシミュレーションでは、インドネシア攻撃そのものが対英米開戦となると予測したが、実際の手順は前後したことになる。

“無謀な戦争”の責任は、決して一部軍部の暴走のせいであったり、ましてや独裁者(?)東条個人に帰せるべきものではない。昭和天皇は、確かに、心情としては開戦に反対していたが、それを止めるべき行動はとらなかった。開戦の詔勅に「豈朕が志ならむや」のひと言があり、それを根拠に戦後の天皇が「反省」の表明にこだわったことが、今さら話題になっている。戦後の日本は、天皇制維持による戦争復興を優先し、天皇の戦争責任を回避したわけだが、それは全く国民そのものの戦争責任を隠蔽していることと同義であることに、なかなか気づけていない。

もう10年近く前の著書だが、“失敗の理由”を探求するうえでのよい組織論であるだけではなく、歴史をあらためて振り返るきっかけになる良書だと思う。


フォト

昭和16年夏の敗戦
猪瀬直樹著
中公新書

13 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年09月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930