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2020年04月09日14:25

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osho

『またある時、馬祖はいつものように
禅床に坐ったったとたんに唾を吐いた。
ある僧が訪ねた、
「なぜ唾を吐かれたのですか?」
馬祖は言った、
「ここに坐った時、
目の前には山や川や森羅万象のすべてがあった。
唾を吐いたのはそれが気に入らぬからだ」
僧は尋ねた、
「しかし、この大自然は素晴らしいものです!
なぜそれを好まれないのですか?」
馬祖は応える、
「お前には素晴らしいかろうが、
私は嫌気がさしている」
僧は続けた、
「それはいかなる境涯でしょう?」
馬祖は言った、
「これは菩薩の境涯だ」』
この逸話の第三の部分は
さらに理解するのが難しい。
馬祖は禅床に唾を吐いたが、
自分は山や川や星々を好まない、
と本気で言っているのではない。
彼はその弟子が
沈黙と裁きのない状態にあるか、
それとも裁いているかを見る為に
試そうとしている。
禅の姿勢のすべては裁かないことにある。
裁いてはいけない。
そして、少なくとも弟子は
師の行為を裁くべきではない。
単に目撃し、馬祖が唾を吐くところを
ただ見ていなければならない。
馬祖は彼を挑発している。
弟子の裁きの心を誘い出そうとしている。
そして、この僧はすべての教えが
裁かないことにあることを忘れている。
ただ見守り、とりわけ師の行為を
見守らなければならない。
あなたは禅床に唾を吐くことが
不埒なことであることを
馬祖が理解していなかったとでも
思うのだろうか?
彼はあなたが
揺れ動かない、
裁かない、
ただ見守っている鏡のような
状態に止まっていることを
望んでいる。
それまで見守っていた鏡が
「何をするんだ!それは良くないぞ!」
と言うと思うだろうか?
この弟子は取り逃がした。
それは悟りを得るための
偉大な機会にもなり得たのだが。
これを覚えておきなさい、
方便がいつも成功するとは限らない、
時にはそれは失敗する。
師はすべてのハートを込めて
努力をするが、
弟子はそれを理解する正しい
空間にいないかもしれない。
さて、少しでも瞑想がある者にとっては
禅床に唾を吐きかけることの不埒さを
馬祖が知っていたことは自明であり、
どんな問いも尋ねる必要はない。
多分、彼はあなたを挑発し、
あなたの裁きの心を誘い出そうとしている。
そして裁きの心が入り込んだとたんに
あなたの見守る心は消え失せてしまう。
この二つの言葉を覚えておきなさい、
裁くことと見守ること。
裁かない時、
あなたは初めて見ることができる。
しかし、
これはどうしても裁かずには
いられなかった彼は尋ねた、
『なぜ唾を吐かれたのですか?』
彼は自分がここで見守ることを
学ばなければならないことを
裁きをするべきではなく、
とりわけ師の行為は
少しも裁くべきではないことを
完全に忘れて去っていた。
『馬祖は言った、
「ここに坐った時、
目の前には山や川や森羅万象のすべてがあった。
唾を吐いたのはそれが気に入らぬからだ』
ここに至ってもこの弟子は
禅床の前には
山も川も大自然もないことを
理解することができない。
師の説明では単に彼を試すためのものだ。
彼は言った、
『唾を吐いたのはそれが気に入らぬからだ』
瞑想的な弟子だったら、
何もせずにただ馬祖を
平手打ちにしていただろう。
そして馬祖はそれを大いに
賞賛していたことだろう。
それはその弟子の悟りに
なっていたかもしれない。
尋ねることが問題ではなく、
応答することが問題だった。
師が明らかに
間違ったことをしたのは
ただ挑発するためだった。
もし弟子が何一つ言わずに、
師を平手打ちにしていたら、
師は笑ってその弟子を祝福し、
こういった言っただろう、
「お前は理解したぞ」と。
が、弟子が要点を逃したので
彼は再び言った、
『唾を吐いたのはそれが気に入らぬからだ』
彼は弟子がこう言うことを
望んでいた、
「あなたの裁きなき心は
どこに行ってしまったのですか?」
が、この弟子は禅のまさに
根本であるところの
裁きなき心を完全に
忘れ去っていた。
『僧は尋ねた、
「しかし、この大自然は
素晴らしいものです!」』
彼は議論を始めた。
師に対しては、
あなたは議論をするのではなく、
応答(レスポンス)
しなければならない。
言葉だけの会話を
始めるべきではない。
それは師を見失い、
彼の大いなる慈しみを
取り逃がすことになる。
『僧は尋ねた、
「しかし、
この大自然は素晴らしいものです!
なぜそれを好まれないのですか?」』
彼の心(マインド)の
レベルまで降りてきて、
問題を議論しようとする地点にいる。
が、禅は議論を許さない。
それは討論会ではない。
それは心からの純粋な目覚め、
裁きからの純粋な自由だ。
『馬祖は応える、
「おまえには素晴らしかろうが、
私は嫌気がさしている」』
彼は何度も何度も
この弟子に思い出させようと
している。
彼はこの裁きのない状態にある師を、
根本を完全に忘れ去っている師を、
平手打ちにしなければならない。
『僧は続けた、
「それはいかなる境涯でしょう?」
彼はまだ知的な立場を取り続けている。
『馬祖は言った、
「これは菩薩の境涯だ」』
これはブッダの境地だ。
もはや他に何も言うべきことはない。
馬祖は
その方便が失敗したのを見て、
会話を打ち切った、
だから覚えておくこと。
方便が必ずしも成功するとは
限らない。
ぜならそこには二人の人間が
関与しているからだ。
悟りを得た師と、
悟りを得てない弟子が。
そして弟子は
ほとんどの場合、
悟りを得ていないやり方でふるまう。
今は頭(マインド)からではなく、
空っぽのハートから、
内発的に行為すべき時である
ことを知らずに。
Osho 「空っぽの鏡○馬祖」より



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