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2018年02月24日05:44

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「すること」と「起きてくること」は違います。




「すること」と「起きてくること」は違います。

このことが解ってくると、その人の人生は変わってしまいます。

神であるあなたは「今、ここ」に、

あなたの内側にそのまま存在し続けています。


津留晃一さん

起きてくること

 ある日、あまり行くことのない渋谷にふらりと行きました。

「あっ、こっちへ行ってみよう」という思いが起こり、

そちらへ向かって歩いていくと、目の前に大きな書店が現れました。

「こんなところに本屋さんがあったのか、時間もあることだし入ってみよう」

とすっと中へ入りました。

精神世界コーナーを見つけ、私の目は書棚をゆっくりとスキャンニングし始めます。

ハッと一冊の本が目に留まりました。

さっとその本を手に取りパッと開いたところを一行読んだ時、

「何だ、この本を買いに来たのか」とわかりました。

 こうして私は「神との対話」という本と出会いました。


帰途の車中、座席に座るやいなや、もどかしく鞄から本を引っぱり出し読み始めました。

なんと素晴らしい本でしょう。

こんな本が形となって現れたことに感動が走りました。

この本を既に読まれた方もおそらく気づいていないと思いますが、

初めに著者はこう書いています。

「この本は私が書いたというよりもむしろ起きてきた」と。

「まさしくこの本は起きてきた」と私もそう感じました。

 私達一人一人が、知りたくて、知りたくて、自分の内側に問いを発し続けてきた

その結果として、神から素晴らしい答えが返ってきたと感じました。

とても読みやすい平易な言葉で、しかも完成された本という形をとって・・・。

皆様方の熱心な問いかけが、この世界に、この本という

とてつもない現実を生みだしてしまったと感じました。

我々一人ひとりの内側への問いかけが集合意識を動かし、

答えという現象を作り出してしまったようです。

 このように出来事というのは起きてきます。

心に思い、問いかけるという積極的行為に基づいて。

我々の自我が「すること」に比べて、比較できないほど大きな成果が起こってきます。

「すること」と「起きてくること」には格段の違いがあります。

とても比較にはなりません。

このことが解ってくると、その人の人生は変わってしまいます。

「すること」に意識が向かわなくなるからです。

 「どうしよう」と思考を巡らし始めたとき、その思考の中で恐れが成長を始めることは何度か書きました。ですから考えなければ恐れは現実化することはありません。何か「する事」に意識の向かわない人には、「どうしよう」という発想がないわけです。

即ちあなたは「何かをしよう」としなくなるわけです。「これが良いからこうしよう」という発想が止まってしまいます。そしてやがて人から「ねえ、こうした方が良いよ」という話さえ聞かなくなってきます。そして現実が、ただ起こってきます。

 「こうした方が良いと思うよ」という他人からの提案があなたの耳に聞こえてくるとしたら、それはあなたの中に、まだ「良いことをしよう」という考え方が残っているという証拠です。「こうした方が得だよ」と、儲け話が入ってくるとしたら、それはあなたの中に得しようとか、儲けようという心が残っているという現れです。

 「えっ、得しちゃいけないの」と驚く方がいらっしゃるかもしれません。私達はあまりにも永い間その考え方に慣れ親しんできたからです。もちろん儲けてはいけない、得してはいけないと言っているわけではありません。あなたが「儲かった」という実感を得るためには、損を伴う必要があります。

損の体験なくして「儲けた」という喜びは生まれようがないからです。ですからあなたが儲けようと思ったとき、必ず儲かる話と、儲けそこなう両方の話を引き寄せてしまいます。損するからこそ「儲かった」と心から喜べるわけです。

 だから損得ゲームはとても面白いゲームとなります。

勝ち続けることが出来ないからこそ、人類が何100年も夢中になることが出来ました。

ですが人類の集合意識は、もうこのゲームを終わらせる事を既に決めています。


このゲームを他の人に先んじて終わらせることを選択してきた人は、もう既に儲けることが出来なくなるという現実を体験していることでしょう。こんな時、人はとても強烈な恐怖を体験する事になります。

 しかし実際は、この事も単に恐怖という体験をしているだけであって、あなた自身は完全に安全です。完全に安全を保障されたジェットコースターや、お化け屋敷の中で恐怖の感覚を味わっていることと同じです。

ただそんな真実を少し忘れてみたかっただけでしょう。そしてその後で、たっぷりと至福の平安を感じようともくろんでいるわけです。「ああ、自分は安全であった」、「おお、なんと面白いゲームを遊んでいたのか」と・・・。

 「しよう」と作為すると、「都合の良いこと」の反対も当然起きてきます。「いい仕事」を求めると、「いい仕事が来た」という喜びを感じるために、その喜びの比較対象である「良くない仕事」も一緒に引き寄せ始めてしまいます。一枚のコインの裏と表のように・・・。「良くない仕事」がなかったら、「いい仕事」をいい仕事だと判断できないからです。

 ですからもう「しよう」とすることを手放してみて下さい。全てをこの宇宙に委ねてみるわけです。あなた自身を宇宙の手に委ねます。ちょっとやってみて下さい。そして自分の心がどれほど安心するかを感じてみて下さい。そうしたら今のその安心感が、安心を感じざるを得ない現象を生みだします。安心な現実が起きてきます。何もしていないというのに。

 「何をしようか」、「どうしよう」という発想が起きなくなるからといって、何もしないと言っているわけではありません。考えようとする以前に、必要のあるときに必要なアイデアがふっとあなたの想念に上がってきます。アイデアが起こってきます。

 人と約束して待ち合わせをしているとき、遅刻しないようにと時間を気にして「今」をおろそかにする必要はありません。夢中で何かをしていたとしても、その時がくるとふっと時間が気になり、時計を見るとちょうど出かけるのにぴったりの時間だった、という現象が起こってきます。

 間に合ったとか、遅刻した、というのは単なるあなたの判断です。そんな判断に一体どんな意味があるのでしょう。「間に合った」といって安心して、はたして一体何を安心しているのでしょう。そこで一体何が得られるというのでしょうか。

単なる自己満足にすぎません。条件付きで、刹那的な安心です。ましてや遅刻した時はどうでしょう。単に自分を咎めるだけです。実際は、あなたの魂にとって、どんなときも常にジャストタイムな事が起き続けています。

 「今度の約束は重要だから時間に遅れるわけには行かない」、こんなとき、時間を気にしないではいられないものです。それは、何かが何かよりも大切であるという考え方に起因しています。あなたの自我にとってこの世に何か大切なモノがあると、そのモノのために恐れが発生してしまいます。

そのモノを失いたくないからです。

それが本当に自分の魂にとって大切なモノであるかどうか、見直してみる必要があります。

どうしてそれを大切であると判断しているのかを・・・。

 でないと「今、ここ」という貴重な瞬間を逃します。

あなたの未来は「今」創られているということを忘れないで下さい。


「遅刻してはいけない」と緊張していると、人は直感を受けられなくなります。


全てのモノの価値に違いがないことがわかった人だけが



恐れから解放され、「今、ここ」に意識がすわります。







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