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2019年12月06日12:35

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キリスト教における狄世悗琉Ν瓩鉢猯擔涌Ν瓩砲弔い董柔消啓治『田辺哲学について』より

先日「日本の古本屋」サイトで購入した、『西谷啓治著作集第9巻西田哲学と田辺哲学』(創文社)が昨日届き、早速、「田辺哲学について」という論文を読む。

この『田辺哲学について」は、1962年11月2日に京都大学文学部哲学科主催で行われた田辺元先生追悼式に引き続いて京都哲学会の公開講演会での西谷啓治先生の講演である。その講演は、1964年刊行学術雑誌『哲学研究』に掲載されることになったのである。

西谷啓治先生独特の一つの言葉、この『田辺哲学について』では、爍圍瓧堯聞圈豊瓩箸いΩ斥佞魴り返しながら、田辺哲学の全体像を浮き彫りにしていくというものであった。西谷啓治先生の言い回しがとても懐かしく思いながら読むことができた。何かしら久しぶりに西谷啓治先生とお会いすることができた感覚があったのである。

西谷啓治先生は、『田辺哲学について』のなかで田辺元が最晩年構築した『死の哲学』においてキリスト教における狄世悗琉Ν瓩鉢猯擔涌Ν瓩箸いΔ海箸鮗茲蠑紊欧蕕譴討い燭海箸妨正擇気譴討い拭そのなかで狄世悗琉Ν瓩廊猯擔涌Ν瓩砲いて成就すると語られていることを、西谷啓治先生は話されていた。キリスト教、とくにカトリックでの信仰は、猯擔涌Ν瓩覆靴砲論立しないと田辺元は語るのである。

猯擔涌Ν瓩組織化されたものが「教会」であり、同じ狄世悗琉Ν瓩鮨仰する者たちの集まりである。キリスト教において「教会」は狠肋紊砲ける神の国瓩任△蝓◆惷飢顱戮覆靴砲魯リスト教における狄世悗琉Ν瓩成就しないであろう。そのことは、浄土真宗においても念仏によって救われて行った念仏者たちの存在なしに牋ぬ鐶貿〕茲悗凌心瓩論立しないということと同じである。そのことをわたしに教えてくれたのが西谷啓治先生のエッセイ集『随筆集 風のこころ』に収められた「歴史について」であった。

西谷啓治先生の『田辺哲学について』は、一度ぐらい読んだ程度では内容を消化することはできない。まだまだ消化不良のままではあるが、しかし久しぶりにわたしは西谷啓治先生とお会いすることができたように思われた。

西谷啓治先生が亡くなられて30年近くなるが、人の「死」には狷体の死瓩鉢犁憶の死瓩箸瞭鵑弔あるという。人は狷体の死瓩砲茲辰涜減澆呂覆なるが、周囲にいた人々の犁憶瓩里覆で生きている間は未だ真に死んではいなないという。その意味で西谷啓治先生はいまだに信ではいないのかもしれない。そんな思いも少し思いながら、昨日届いた、『西谷啓治著作集第9巻西田哲学と田辺哲学』を眺めていた。
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