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2019年11月14日10:23

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〈浄土〉と〈往生〉―星野元豊著『浄土の哲学―続「浄土」』

「極楽は概念的理解を絶したものであるが故に、あえて神話的表象によって示されているのである。しかしまた極楽は神話的表象をもって示されているからといっても、ルドルフ・ブルトマンの解釈学的な非神話化によっては明らかにされることは不可能である。何故なら、極楽は以下のべるような主体的なものだからである。極楽は願生する主体の上にはじめて自らを顕現してくる主体的なものだからである。往生という主体的な行為の上にあらわれてくる主体的存在である。わたくしにとっては、常に往生というはたらきをほかにして極楽という存在はありえない。往生を外にして極楽を語らんとするとき、極楽はたちまち惣然としてそのすがたをかき消すであろう。祖典が多く〈往生安楽国〉〈往生浄土〉〈往生極楽〉と熟語している所はそこにあるといわねばならない。」

星野元豊師は、〈往生安楽国〉〈往生浄土〉〈往生極楽〉と、古来より〈浄土(極楽)〉と〈往生〉とが対をなす概念であることを指摘している。これらの〈浄土〉と〈往生〉という概念が対をなしているということは、〈浄土〉が衆生の救済を目的とした概念であり、その救済は〈往生〉という形において成就するからである。つまり〈往生〉が〈浄土〉なしには存在しないように、〈浄土〉もまた〈往生〉なしには存在しないことを意味しているのである。

爐靴しまた極楽は神話的表象をもって示されているからといっても、ルドルフ・ブルトマンの解釈学的な非神話化によっては明らかにされることは不可能である。何故なら、極楽は以下のべるような主体的なものだからである。

ここにおいて星野元豊師は、犲臑療なもの瓩箸いΩ斥佞鰺僂い討い襦〈極楽(浄土)〉が概念的理解を絶したものだと言って、ルドルフ・ブルトマンの解釈学的な非神話化が適用することができるのかといえば、そうではない。なぜなら〈極楽(浄土)〉は犲臑療なもの瓩世らという。星野元豊師は、この犲臑療なもの瓩海修〈往生〉に関わる事柄だとしている。

犇乏擇牢蠕犬垢觴臑里両紊砲呂犬瓩銅らを顕現してくる主体的なものだからである。往生という主体的な行為の上にあらわれてくる主体的存在である。わたくしにとっては、常に往生というはたらきをほかにして極楽という存在はありえない。往生を外にして極楽を語らんとするとき、極楽はたちまち惣然としてそのすがたをかき消すであろう。

星野元豊師が犲臑療なもの瓩△襪い廊犲臑療存在瓩噺譴觧柄は一体どこから来たのだろうか。『浄土の哲学―続「浄土」』の「はしがき」には繰り返し西田幾多郎の狆貊蠹論理瓩里海箸書かれている。たとえば、

「以前、西田幾多郎の〈場所的論理と宗教的世界観〉という論文を読んだとき、〈私は対象論理に於ては宗教的事象を論ずることはできないのもならず、宗教的問題すらも出て来ないと考えるのである。〉といい、宗教は場所的論理的にのみ理解されうるという確固たる主張に出逢った。それまでもわたくしもまた宗教学の一学徒として、いつも宗教を論じ、ある程度は宗教を理解しえたつもりである。墓はもしわたくしの理解の仕方が西田の場所的論理的でないとしたら、わたくしの宗教についての理解は誤りということになろう。」
あるいは、
「それと同時に西田が宗教の問題は場所的論理によってのみ理解できるという言葉の意味もどうやらわかったような気がする。だいたい如来と私との対決にかかわることがらが対象論理的に理解されうるはずがないではないか。このようにして今や『教行信証』の一字一句が如来と私との対決から生まれ出たわたくしの言葉として、肚の底から納得されてきたのである。それは七百年前に語られた親鸞の言葉であるが、同時にそれは現在のわたくしの心の底から湧き出てきたわたくしの言葉である。それ故に『教行信証』においては、〈親鸞〉は〈私〉であり、〈私〉は〈親鸞〉であるとはっきり言い得ることができるのである。」
と。

星野元豊師は、この『浄土の哲学―続「浄土」』を書くことのうちに顕わになってきた犲臑療立場の自覚的確立の安らぎ瓩箸いΔ海箸盻鼎佑峠颪い討い襦わたしは、星野元豊師の犲臑療立場の自覚的確立の安らぎ瓩叛湘調多郎の狆貊蠹論理瓩箸決して無縁ではないと考えているのである。むしろ星野元豊師の犲臑療立場の自覚的確立の安らぎ瓩論湘調多郎の狆貊蠹論理瓩梁瞭世ら得られたものではないかと考えている。牋柄阿砲六々顔をのぞかせていたブルトマン的な思惟を根底からくつがえすこと瓩發任たとさえ書いているのである。

では爛屮襯肇泪鹽な思惟を根底からくつがえすこと瓩箸呂いなることなのであろうか。冒頭で述べた〈浄土〉と〈往生〉、そして犲臑療なもの瓠△気蕕砲呂修稜愀覆砲△訐湘調多郎の狆貊蠹論理瓩箸隆愀言から少しまとめてみたい。

星野元豊師は、〈浄土〉と〈往生〉という犁澪兩立の根拠瓩鯲体的に構造として、親鸞の『唯信鈔文意』にある次のようなところから書き始める。

「しかれば仏について二種の法身まします。ひとつには法性法身とまうす、ふたつには方便法身とまうす。法性法身とまうすは、いろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよばす、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす、その御すがたに法蔵比丘となのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり。この誓願のなかに、光明無量の本願、寿命無量の弘願を本としてあらはれたまへる御かたちを、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。この如来すなわち誓願の業因にむくそたまひて報身如来とまうすなり。すなわち阿弥陀如来とまうすなり。報といふはたねにむくひたるゆへなり。この報身より応化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまふゆへに尽十方無碍光如来とまうすひかりの御かたちにて、いろもましまさず、かたちもましまさず、すなはち法性法身におなじくして、無明のやみをはらひ、悪業にさへられず、このゆへに無碍光とまうすなり、無碍は有情の悪業煩悩にさへられずとなり。しかれば阿弥陀仏は光明なり。光明は智慧のかたちなりとしるべし。」

親鸞は、『唯信鈔文意』において爐靴れば仏について二種の法身まします。ひとつには法性法身とまうす、ふたつには方便法身とまうす。瓩噺世ぁ∧に猖\法身瓩鉢猜便法身瓩あることを語る。

猖\法身瓩箸蓮↓爐い蹐發覆掘△たちもましまさず、しかればこころもおよばす、ことばもたえたり。瓩箸いΝ牋貲´瓩任△襪噺世ぁ↓猜便法身瓩箸蓮↓爐琉貲,茲蠅たちをあらはして方便法身とまうす、その御すがたに法蔵比丘となのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり。この誓願のなかに、光明無量の本願、寿命無量の弘願を本としてあらはれたまへる御かたちを、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。瓩箸いΑ猜便法身瓩箸廊猖\法身瓩亮己限定的現出にかならないのである。

親鸞は、救済成立の原理である猜瓩砲弔い董⇔体的な構造を説明しようとしている。このような仏の立体的な構造の説明において、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生たるわたしたちの救済成立の根拠を明らかにしようとする。星野元豊師は、この親鸞の救済成立の根拠を受けて、〈浄土〉を狢萋鷦〃措上的世界瓩箸靴銅,里茲Δ棒睫世靴討い襦

「第二次形而上的世界とは、第一次形而上的世界(形而上学ではない)と現実的世界との中間に位する世界である。第一次形而上的世界とは、絶対超越的な世界、それは一切の限定を絶した絶対空、絶対無の世界である、言亡慮絶の一如の世界である。それに対して第二次的形而上的世界とは、無限の世界でありながら、有限的に映写された世界である。形なき世界でありながら、形を映している世界であり、無の世界でありながら、有を映写した世界である。一口にいえば無の世界が有的に映写的に自己を映しだした世界である。それ故に有限的世界からは、形而上的に隔たっていながら、しかも有限的に対照的に対しうる世界となるのである。このように本来は無限的世界でありながら、自己を相対有限的に、映像的に限定した世界を第二次形而上的世界とよんだのである。それは現実界よりすれば、やはり形而上的というよりほかない、現実界を超えた世界である。しかしこの世界は真如海のごとき言亡慮絶的、絶対超越的世界ではなくして、無限世界でありながら、相対有限的に映現した世界として、相対的現実的世界とかかわりあう世界である。無的であって有的な世界である。しかしそれだからといって、第二次形而上的世界を単なる影の如きものと解してはならない、幽霊の如き存在と解してはならない、蜃気楼のごときものと解してはならない。第二次形而上的世界は、現実に具体的に生きてリアルに働く働きなのである。働きをほかにして第二次形而上的存在はない。」

狢萋鷦〃措上的世界とは、第一次形而上的世界(形而上学ではない)と現実的世界との中間に位する世界である。瓩海海砲いて星野元豊師はまず、〈浄土〉とは、狢萋鷦〃措上的世界瓩箸靴董↓狢莪貅〃措上的世界瓩任△襦勸貲 咾箸錣燭靴燭舛生きているこの〈現実的世界〉との狠膕霄圻疆存在であるとする。

狢莪貅〃措上的世界とは、絶対超越的な世界、それは一切の限定を絶した絶対空、絶対無の世界である、言亡慮絶の一如の世界である。それに対して第二次的形而上的世界とは、無限の世界でありながら、有限的に映写された世界である。形なき世界でありながら、形を映している世界であり、無の世界でありながら、有を映写した世界である。一口にいえば無の世界が有的に映写的に自己を映しだした世界である。畧洩邯桔師がいう狢莪貅〃措上的世界瓩箸廊牋貲´瓩寮こΔ任△蝓⊃二造いう猖\法身瓩任△襦それに対して狢萋鷦〃措上的世界瓩箸廊猝妓造寮こΔ任△蠅覆ら、有限的に映写された世界である。形なき世界でありながら、形を映している世界であり、無の世界でありながら、有を映写した世界瓩覆里任△襦親鸞がいうところの猜便法身瓩これに当たる。

ただわたしが注目したのは、狢萋鷦〃措上的世界は、現実に具体的に生きてリアルに働く働きなのである。働きをほかにして第二次形而上的存在はない。瓩箸いε世任△襦つまり第二次形而上的世界も第一次形而上的世界も、それらは犖把蠅気譴深詑里箸靴討寮こΝ甅爐修海砲箸匹泙辰討い觴詑屬寮こΝ瓩任呂覆、犖充造剖饌療に生きてリアルに働く働き瓩覆里任△襦それらの働きはまさしく倏〕茘瓩箸靴董∈甍深重・煩悩熾盛の衆生たるわたしたちを救済せんとして、働く働きなのである。

星野元豊師は第二次形而上的世界である〈浄土〉は〈往還の二廻向〉として罪悪深重・煩悩熾盛の衆生たるわたしたちに次のように働かけてくると論じている。

「浄土に至りついた往相廻向は、浄土そのものの必然のはたらきとして、再び煩悩の林、生死の園に還って、苦悩にあえぐ衆生を教化して、ともに浄土へ帰せしめんとする働きに旅立たざるをえないのである。往相の帰着点はそのまま還相の出発点である。しかし穢土における還相の働きは、そこに苦悩している衆生の願生心をかりたて往相の働きをはたらかなければ完成しない。すなわち還相の働きは第二次の往相の働きをはたらかなければ無意味である。このように無限相は第二次の往相の働きをはたらくが、さらに第二次の往相の完成は必然的に第二次の還相をひきおこしかくして無量の衆生のあるかぎり、無尽の往・還の働きがはたらくのであろう。それ故に往相と還相とは不可分離的であり、往相を離れた還相はありえず、還相をともなわない往相はありえない。そして本願力廻向はこの往還の二相を共に具しているものなのである。すなわち無尽の往還二廻向を蔵して働いているものが本願力である。それでなければ本願率は成就しないのである。」

この星野元豊師の狆土に至りついた往相廻向は、浄土そのものの必然のはたらき瓩箸いο製劼肪輒椶靴燭ぁこの狆土そのものの必然のはたら瓩箸蓮↓狆土へ帰せしめんとする働き瓩任△襪箸箸發法↓牘相の帰着点はそのまま還相の出発点瓩任△襦そうして爐垢覆錣全堊蠅瞭きは第二次の往相の働き瓩任發△襪里任△襦つまり往・還二相の廻向の働きは円環的にして無限なる働きだと論じているのである。かくしてこのような猝疑圓留還二廻向を蔵して働いているものが本願力瓩覆里任△襪箸いΑ

罪悪深重・煩悩熾盛の衆生たるわたしたちの犂蠕舷喚瓩蓮△修虜底に倏〕莨ごの声聞く瓩箸いλ楷衫呂吠饑櫃気譴覆ら、第十九願、第二十願、そして第十八願の犹梓蠹焼瓩硫當で深化していく。その過程を星野元豊師は次のように述べている。

「光明無量は空間的に、寿命無量は時間的に現実的世界における活動としてはたらく。すなわち真如は無碍光如来として、無量寿仏として光号因縁の譬喩の示す如くに、私をとりまいて私におそいかかる、これが具体化し、集中化して、凝縮したものが、第十七願において諸仏称名として十方に響流してよびかけたもう阿弥陀仏のはたらきにほかならない。それは真如という全体的一が法的面に、個物的に自己限定したすがたにほかならない。帰命の対象としての阿弥陀仏とはかかる個物的限定の先鋭化の極限である。そしてまた、全体的一の機的限定面として示されたのは、まず第十九願の自然的人間のはたらきである。それは自己をたのんで至心に発願して精進努力して往生しようという自然的人間の自己肯定的自力的願生のはたらきである。そしてさらに第二十願の自己否定的絶望的人間のはたらき、さらに第三にはそれらの根底を露呈して、地獄必定を自覚した第十八願の自覚的人間の全体的自己投棄のはたらき(わたくしのいう賭)にほかならない。・・・・(中略)・・・・第十八願における人間の自覚は単なる罪悪の自覚というようなものではなくして、罪業の自覚である。否、世間で磐余ているな罪業の自覚ではなくして地獄必定の自覚である。それは罪悪とか罪業とか人間的臭味をもった言葉で示すことのできない、ただ地獄としか表しようのない地獄的自覚である。もちろん、このように自覚は自然にえられるというものではない。それはただ往相の廻向のはたらきにおいてのみ可能なのである。」

第十九願の犲然的人間の自己肯定的自力的願生のはたらき瓩ら第二十願の犲己否定的絶望的人間のはたらき瓩気蕕紡莉夙願の狠蝋必定を自覚した自覚的人間の全体的自己投棄のはたらき瓠∪洩邯桔師は第十八願の狠蝋必定を自覚した自覚的人間の全体的自己投棄のはたらき瓩鬮狹勠瓩箸靴燭、そのような過程を経て罪悪深重・煩悩熾盛の衆生たるわたしたちの犂蠕舷喚瓩録鴫修契就していくのである。その成就していく場所がまさしく〈浄土〉であり〈往生〉なのである。

「神と人間との間の仲介者として理解したところ、キリスト教的という批判があった。説明不足の点もあり、多少異様にひびいたかもしれないが、わたくしは今でもこれを誤りだと思っていない。わたくしが本書において、浄土を第二次形而上的世界とよんだのも、この仲介者の世界をいったものにほかならない。ここでわたくしがいいたいことは、神と人間との関係という対象化されざる事態を対象化して、あたかも神と人間とのかかわり合いを舞台の上において自己は観客の如き態度をもって、これを観察して論をすすめてはならないということである。わたくしの浄土の仲介者ということに対する批判は、わたくしの舌足らずもざることながら、このような対象化の立場からの誤解によるものが多かったように思う。」

星野元豊師が〈浄土〉を狄世反祐屬箸隆屬涼膕霄圓箸靴突解したところ、キリスト教的という批判があった瓩箸垢襦しかしその批判は当たらないものだとしている。その理由を爐錣燭しが本書において、浄土を第二次形而上的世界とよんだのも、この仲介者の世界をいったものにほかならない。ここでわたくしがいいたいことは、神と人間との関係という対象化されざる事態を対象化して、あたかも神と人間とのかかわり合いを舞台の上において自己は観客の如き態度をもって、これを観察して論をすすめてはならないということである瓩判劼戮討い襦つまり〈浄土〉を狄世反祐屬箸隆屬涼膕霄圓箸靴突解したところ、キリスト教的瓩箸垢襪里蓮↓爐△燭も神と人間とのかかわり合いを舞台の上において自己は観客の如き態度瓩砲曚ならないからである。そのような態度こそ、まさに狢仂殤斥に於ては宗教的事象を論ずることはできないのもならず、宗教的問題すらも出て来ない瓩箸靴神湘調多郎の言葉を思い出されるのである。

星野元豊師は、西田幾多郎の狆貊蠹論理瓩砲覆蕕辰董第一次形而上的世界である牋貲´瓠第二次形而上的世界である狆土あるいは阿弥陀如来瓩修靴童充妥世界という三層構造をもってその構造を描き明かした。しかしそれらの三層構造はすべて第一次形而上的世界である牋貲´瓩亮己否定的自己限定という働きの表出にほかならないのである。つまり〈浄土〉と〈往生〉も牋貲´瓩亮己否定的自己限定という働きの表出に於いて成就してくるのである。

星野元豊師は、〈浄土〉とは〈往生〉という犲臑療なもの甅犲臑療な行為甅犲臑療存在瓩砲いてのみ成立するのだと論じている。そのような〈浄土〉と〈往生〉との関係性の背後には、第一次形而上的世界である牋貲´瓠第二次形而上的世界である狆土あるいは阿弥陀如来瓩修靴童充妥世界という立体的な三層構造が存在し、そのような三重構造をもってして明らかとしたのが西田幾多郎の狆貊蠹論理瓩覆里任△襦星野元豊師が西田幾多郎の狆貊蠹論理瓩判于颪Δ海箸砲茲辰董◆匸土〉の村債意義をさらに明らかにしたのはここらあるのである。

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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月16日 20:40
    ムツカシや〜ヤヤコシや〜ムード (^^♪ 途中放棄でゴカンペン。「往生―主体的」信仰と理解するよ。ウッシッシ
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月17日 08:22
    > mixiユーザー 
    正直を言うと、これが完成粉なのかどうか、自信がありません。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月17日 17:47
    > mixiユーザー  わーい(嬉しい顔)指でOK

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