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2019年11月14日15:55

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考える・感じること &「境界」、「視点・観点」& 存在のメタ認知

The Tree of Zen とその仲間たち、 11月のワンシーンです。
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木霊 禅
◇ 視点、観点と、「戦争」、憲法改正 (下記のコメント 山崎 順子さんの観点を含める再テーマです)
視点と観点は、似て非なるものです。注目すべき点は、視点と観点は「知性」というよりも、「知覚」に属する点にあります。すなわち、計算や論理、推論といった「思考」の世界ではありません。「感覚と、経験、視察・観察」の世界です。また、そこでは、偏在する自由な探求ではなく、瞬時の感性と直感で見回し見通す形での、反論の余地なき「限定」を付す働きとなります。
もちろん、「枠づけ」や限定という(「境界」付け)機能自体は、知性やその他にもある、現象界の存在に通有する、(それ自体)他の重要ポイントです。「感覚」による限界づけ(縁とり)の、優位性をここでは指摘しておきたいのです。
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上記の「非なる点」については、「視る」がもともと、まっすぐ目を向けてみる、一点を示して集中し見ることであるのに対して、「観る」は、鸛(こうのとり)が見る、すなわち、鳥が目を見開き周りを窺うように眺め見る点が参考となります。つまり、集中した焦点ある一方向か、多くを並べて見比べて広く見渡すか、が差違となるのです。後者においては、(理想の)メタ認知に一歩近づくのでしょう。
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視点と観点は、その違いを反映しているのです。
「視点」は見る側の目の位置(A point of view)から目で見て物事を注意深く調べみていくのに対し、「観点」は観察者から少し離れて、見られる側の物や場所や位置に "view point " が置かれて、感覚と知性の中間ぐらいの立ち位置のあるみる、ということになります。
ただ、あくまで「点」( 事実 )は同じで、直截な、その視察と観察です。
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なにを言いたいかというと、「人がまっすぐ目を向け、一点集中して見る」ことや、「鳥が目を見開き周りを窺うように見る」ことは、その後の「思考」よりも、はるかにデータ量が膨大で、かつ緻密なことです。
裏返すと、「思考」にはその比較感から、鸛(こうのとり)の自然との対峙以上のもの(鳥の感覚以上の、精確な遺漏なき論理的組み合わせ)があるかという、深刻な強い優劣を持つ疑念がもたれてきます。
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と同時に「思考」がメタ認知設定にも喰い込むのです。人と恐竜の子孫との違いでしょう。反面「思考」の質は(現代的に意識水準から)問われます。
かつての滅亡の生物は、進化の過程で高さを要求しました。その切ない(悲しさと素晴らしさの)旅は、私たちもあえなき驚異の自然から、碧さの地球の一端に、いま同じくみてとれるのです。つたない頭脳を得て、いまその上の水準が求められるからです。
視点と観点の構築と行く方は、限界を踏み越え行く未来の挑戦者たちの鍵です。
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山崎 順子 .
受容・赦しと、敢然と立ち向かうこととは「両立する」との「観点」を、その限界(境界ライン)までいき、人類はいまその深みにおいて、その心(意思と意識)は(その確たる「源泉」の所在を)説明できるでしょうか?
そうでないと、意思と意識に要求される現在の必要な「水準」には、達してはいないようにみえます。
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内観を正直で真摯にした人たちは、あらゆる苦の種、人間が生きていくうえでの罪深さに落ち込んでゆきます。自分のそれを受容(許し)ができても、他者のそれはできないのでしょう。
我が身への受容(赦し)と、同じ原因を(同じ平面で)、他者へと立ち向かう「両立」としているのではありません。
他者(自分)への受容(許し)と、他者(自分)に立ち向かうことは、吟味は必要としますが、両立するという意味です。
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正直をいい、「両立しないんだ」、「どちらか一方だけなんだ」という人が、現在のこの世では、大半なのでしょう。つまり、同じ平面だけで(意識水準のレベルと広がりを考えずに)人は生きているわけです。
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「受容・許し」だけがあるというのは、なんと狭くて浅いことでしょう。現象の実に多くのものに目を瞑って、全部を生き切った姿には見えません。
ましてや、その逆の「闘争と競争のみ」と考える人たちは、長期的には、滅びの人類史を選択して生きている人たちです…地球的時間では、限られたパイを食い尽くすのはすぐだからです。
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境界ラインで両立する「源泉」の姿を見つけるのは、難しいことでしょうか? それ自体は、さほど困難なことではないはずです。それはメタ認知の両立の源泉への到達という意味をもちます。
もともと、現実を(心の)「自立」があって生きる人たちには、片方のみでは(現象界を生き切るには)足りなかったはずです。
その「自立」とは、現実を直視することで、内観での落ち込みで自分を嫌いになったら、もう終わりとの、縁(へり)の意識から始まったのでしょう。
逃げずに直面することは、大変なことです。成長は、逃げたくなるから「うっかり」居場所を変えるのです。それが成長プロセスです。居場所とは、個々の意識次元です。「うっかり」は意図できないからです。
たとえば、一貫した「意識水準」の小刻みな試練の変容エネルギーを経ないと、通常「断捨離」が続けられません。無意識は管理するのには、私たちには広すぎます。
人の「自立」とは、両方を使い分け、矛盾か否かなども考えず(考えられず)に、結果だけを事実として埋め合わせ、生きている姿なのでしょう。それが現象界の評価なので、その水準で目一杯で、自立をめぐり要求されている現実的実態になっていきます。
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「受容・許し」だけが到達点ではなかったのかと言われるかもしれませんが、時空があるということは、(繋がりがあるので)似通ったことを人はしてはいますが、事象が別にあるということです。
ただもっと普段から顕在意識に方向性の確かさを示す深みの次元を、無意識に生きるのみでなく、置くべきなのでしょう。
容易だと判断できるのは、その構造の周知があるからといえます。
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方向性の確かさ・創造の深み(「源泉」)から見たならば、たとえば、「戦争」という形で、両立することはあり得ません。真の受容・赦しがあるならば、「戦争」の道を辿らないのです。
両立していても、吟味する、踏まえることがあるの意味です。変容された心が背景に生まれていかないと、両立しません。現象界との境界にはそうした「浄化」が絶えずあるのです。
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自らを愚とする良寛は愚のみで完結しているわけではありません。坂口安吾の堕落は堕落仕切ることで、本領を発揮します。親鸞の善悪の超越には、受容と闘いの双方を必要とします。
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自民党憲法草案はその点を、深く理解していません。赦すことができないから戦争をするというのでは、一つの方向性、別次元にあるメタ認知となるべき、大きな確証の点(観点から得られるはずの「源泉」)を欠きます。戦争成金を作るためというなら、もう人間の心ではありません。
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意識 つくろう .
木霊 禅さんには、次のような趣旨の文章が過去にありました。
「彼(坂口安吾)の『堕落』にある心情は、凄絶な勢いをもった現象の時空との闘いである。彼はより正面から腐臭漂う現象を切り裂こうとしている。親鸞が言うように、『真実』は ただの善でも悪でもない。悪も現象界は正機となり、組み込まれた成長と進化要因となっていくのである。」
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言ってみれば、宮沢賢治の『デクノボー』も世間的な、いわば、『堕落』とは隣り合わせにあるものです。
『真実』のみが人を目覚めさせ、人を前に歩ませていくのでしょう。
ゆとりは知らず慢心と不正直を生み出しやすく、偏見や高慢は地位や金銭から意図せず生まれることが多いものです。
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堕落や悪、木偶の坊は、それらから最も遠くに位置しているものです。もっとも、それを自覚できる知性は必要なのでしょう。
相対的時空世界で、絶望の淵を乗り越えていく点で隣り合わせにあるそれらが、合理主義だけの僕(しもべ)となって生きる現代人に、その観点から剥き身の『真実』の雄叫びと鉄槌を加えているように思います。
すべて踏みつぶし皆無にしてこそ(般若心経)劣等意識や自己嫌悪も消えるとの、仏陀の澄んだ認識を背景において。
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佐藤 かぐや .
地上の欲望から出られないのは、それを活力とし、見せかけに注意がとらわれ過ぎ、「真実」に近づけていないからです。
1%未満の「真実」を得るには、厳しい「識別」が必要ですが、でも、ほとんどの人たちは、それを持つ誠実さに欠け、必要な「真実」に到達できていないのです。
現象界の自我や欲望を満たすのは、ここにいる限りの一時的事象に過ぎないことを、宇宙意識の次元で、正確にとらえているとはいえません。
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その意識の境界を突破できることが感覚と知性にとり必要なことです。自我や欲望はその目標へ向けて、正しく使われていかなければなりません。
正確に活力源を理解し、エネルギーの適正な源を、適正な浄化を施して探り出す必要があるのです。
二元ないし多元の現象界にいて、正直さの、各分野でもたらす領域なのでしょう。神聖さが最終的に導くものです。それは、人間世界に安心感と平和意識、真の連帯感を与えてくれます。疑い深さや欲深さ、自己中心になった自我は、この世界に分離意識を広げていきます。同レベルのそれに力を得た仲間を増やすからです。適正な管理意識が欠けた、商業ベースのみで成り立つネット世界は、そうした危うさを含むものです。
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掲示のような三者のケースは、不安・恐怖や衝突、不信と裏切りという分離意識とは明白に無縁です。人が欺瞞や偽善から自由になって、安心と平和と信頼が得られるのは、財物や名声、権力支配と離れたものがあるという気概と識別意識を期待しているのです。
自己を欺いたり、管理を無意味にする責任の否定、感覚や知性のいずれかまたは双方を独善的に無効にすれば、正確性を失っていきます。
わたしたちが本当に必要な方向性を得られなくなるのです。
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