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2019年03月24日14:00

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カイロスの時間と瞑想と宇宙

今月も " The Tree of Zen とその仲間たち " の書いた文章を、アトランダムに 五つほど、紹介してみることにします。
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◆ 初台 太郎
宇宙の法則と宮沢賢治 −「デクノボー」という無害性。
自分が眼中になければ、自分のことを語らない。これは、物質的な自分のことを語らないという方がより正しい。
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私たちは同じことを繰り返している。
朝起きてご飯を食べ、生活を維持するために曲がりなりにも仕事をする。何かのたいせつな引っかかりをもちながらも…。しょうがないと生きている。時間の流れ、時代と周期は通常人には、そうやって起きている。
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二つの時間意識がある。量的な時間と質的時間、ギリシア時代、すでにそうした区別をしていた。クロノスの時間と、カイロスの時間という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/カイロス
クロノスは通常知っている腕時計で通常流れていく時間になる。管理をしているのだろうか、管理されているのか。人は普段クロノスの時間に拘束されている。
一方、カイロスの時間は、心理的な時間、奥行きをもつ時間のことを指す。
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永遠の時間、濃密な圧縮された時間を、ギリシア時代はカイロスの時間といった。
いま時間はどう過ぎているのだろう? 早いだろうか?
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シリアで拘束されていた人の時間は、その問題の確かに一端を示している。
トラウマも、究極は人と時間の強度の問題と思う。
その人はびっしりと何冊ものノートへ記録している。「事実」と「感じ」の記録なのだが、段々と「感じ」が優位になる。「感じ」の整理で、「感じ」は物質的な自分ではない。意識は多段階あり、成長も示す。
最後はもうノートのスペースがないから、日にちだけ書いてある。だが、想いの込め方が分かる日にちだ。
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身柄を拘束されれば、時間に追われない。
でも、時間に追われる現代人の方に不幸がないか ?
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カイロスの時間にリンクすることは、瞑想と思う。良いのでも悪いのでも、マインドフルネスに時間をもつ、人間存在を生きるうえで、ギリシア人はカイロスがなかったら、何の生かと思ったのだろう。
私たちはいつも物質的な自分のことを語っている。
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忙しい人だったかも知れないが、宮沢賢治はカイロスの時間を知り、それを軸に生きていたことは間違いがないように思う。
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(意識せずとも)「球状の壁の中に 生命たちを閉じ込めるための公式」(『ホワイトマジック』規定11、アリスベイリー )を探し求めているからだ。
そのアイディアが法則として存在する。
浄化し、憎悪と苦悩、恐れ、嫉妬と低位の欲求の扉を閉ざそうとするのは、相手も周りもまさに自分の鏡との自然法則があるからだ。
「デクノボー」の無害性の浄化は、究極の癒しであり、星になるヨタカの救いの飛翔であったように思う。
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◆ 山崎 順子 .
H・P・ブラヴァツキーによる、次のような仏陀に関する気づきほど、未来の人間精神にとって、大きなものはないと思います−「シークレット・ドクトリン(宇宙発生論)」から −。
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「主仏陀は言われた」
「 ただそういわれているからと言って、ものごとを信じてはならない。
昔から伝わってきたものだからと言って、その言い伝えを信じてはならない。
そのように噂されているからといって、その噂を信じてはならない。
聖者が書いたものだからといって、その書を信じてはならない。
デーヴァから与えられたものと思い込んで、その空想を信じてはならない。
でたらめな憶測から引き出した結論に基づいて、また、必然的にそう類推されると思われるからといって、あるいは単に教師や先生の権威を拠りどころにして、信じてはならない。
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しかし、自分の理性と意識において、確証を得たときには、そのような 書、教義、言葉を 信じるべきである。」
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仏陀は最後に次のように言われた。
「そういうわけで、私があなた方に教えたのは、そう聞いたからというだけで 信じてはならない。
自らの意識で確信したならば、その信念に従って 一生懸命に思索を深め真理に向かい行動せよ ということである。」と(第三巻 原書401ページ)
アリスベイリーも、ある著書で、これが 「その著書を読む すべての読者の態度になりますように」と記しています。
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◆ 初台 太郎
ときめきとは、ノスタルジックな響きがあるように、存在の原初への疼きです。すなわち、「ワクワク」も、もともと原初の存在のもつありのままの命の本来の歓びとなります。
宿題は放っておいてゲームから始める子どもに、疑問をもつ大人たちは誤りなのでしょうか?
子どもはまず、一番楽しいことを、始めたいと単純に願っているのでしょう。
バシャールは「毎瞬毎瞬、シンプルに選択をして、可能な選択肢の中から自分がその瞬間に一番ワクワクすることで実際に自分が一番うまく行動に移せることを実行してください。それを行動に 移してください」といいます。
そのことばからは、言いたいことの真実は、まだ明瞭に伝わっているようにはみえません。
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その子どもの自然な願いの本質も、もっと深く浮き彫りにできなければ、ここではさほどの意味は出てこないでしょう。
「自分が一番うまく行動に移せること」も、「うまく」とありますから、自然な状態で適格に選択できる情況を前提とします。ですから、上記でおとなが疑問に思うのは正しいはずです。
大人たちの躾(しつけ)という教育の、社会における必要性との整合性が必要で、実は心身の成長を望むのは子どもたちの最大の自然な願いでもあるはずです。そしてその「自然な願いの本質」を、大人も子どもも、その双方が「もっと深く浮き彫りに」する必要があります。
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「うまく」の「質的」側面を考えると、そうした選択能力がある大人でも、へいぜい無闇(むやみ)に「原初の存在のもつありのままの命の本来の歓び」に蓋をして、多岐の物質や欲望の歓びを含めた表面上の選択肢の広がりをもつものとしてあります。分かっていることは、どの入り口から入っても(バシャールのいう)「一見 単純なことのワクワクが、 実は、単純なことがより大きなワクワクすることに繋がっている」確かな事実があるということです。
砂漠のようなこの現実で人は、共通して本来求めているはずの深みになかなか行きついてはいません。それは羊飼いを失った悲しみのストレイ・シープと同じで、意味をもちます。
朝からゲームをする子どものうつろな目と、私たち大人が心の砂漠を生きているいまはきっと同じでしょう。
そして、砂漠だから「ワクワク」の喜びと感触はたいせつな意味をもっています。それは(バシャールがいうように)生きる「原動力」、すべてを含む「キット」、敏感な「センサー」としてです。
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「ワクワク」自体がもつ大切さがそこにあるのですから、表層はつかの間のいとも簡単に「執着」の対象となってしまいます。それは適格な識別の問題です。
本質は流れる「表層」にないものと思います。「ワクワク」自体がもつ共通した鉱脈を、ワクワクの敏感なその「センサー」により、たどることはできるでしょうか?
類似の状態の色を帯びる水晶のように質的に浄化の色で表層を変えるきっかけが生まれれば、表層自体のあらゆる質を気づきが変え、ワクワクの対象は、「ワクワク」する者の、新たな特性と同一となって、質料にも変異を生じさせます。
事は「ワクワク」自体のもつ成長の始まりでしかありません。
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より精妙なものを、悲しみのストレイ・シープの人間精神は、この超微小の宇宙から、マクロ・コスモスへと求めながら、成長、進化しながら生きていくものとしてあります。
粗雑さと精妙さ、弁別と非弁別、有想と無想と、瞬間的な行き来をしつつ全貌の知覚を底に眠らせながら、存在の宇宙の栄光は蓋をし哀しみのこの時を、いま生きているのです。
朝この空間に居心地悪さを感じる子どもに、深層の「ワクワク」を教えられないにしろ、彷徨う魂の一つとして純粋に方向性への共感を感じさせられるはずです。
それ自体が全貌のみえる美の誇り高き一瞬です
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◆ 中村 高徳 .
以下は、木霊 禅さんの 某所 コメントからの引用です。
「 誤りに真に気づき、古い道から転換するためのエネルギーは、どんな状況のときに生まれるかということについて、認識していることは大きな意義があると思います。
転換といえるほどの離脱は、内面で非常に大きな抵抗があるため、通常のありきたりのゾーンのなかでは生まれてきません。習慣的に引きこもるのが惰性の時間に流れる通常の人間意識だからです。
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個人的にも社会的にも、だから、その大きな転換エネルギーは、そう簡単に何度も人生のなかに訪れてはくれないと思うのです。
その事態への智恵を普段蓄えておく必要があります。後から冷静に、気づくか気づかない程度の微かなもので、自覚していることは役立つからです。
ある宇宙意識は、その鍵を「死にもの狂いとなり、完全に耐え切れなくなったときにだけ」可能とします。
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真の成長や進化へ結びつく方向性があり、限られた条件が満たされたときだけ心理的にも抵抗を消し去り、可能となっていくというものです。新たな創造は、常にそうしたエネルギーの真摯な闘いになるものと思います。国家の場合も同じことと思います。創造の存在、共存する未来の地球への意識が、真正面から問われています。
既存のなかへ単に埋め合わせる意識のみから、創造の新たな日本の未来を、切り開くことは困難と思うのです。」
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次は、アリス・ベイリーの著書からの引用です。
「 すべての正しいアイディアは性質上、一時的なものである。そのため、部分的に正しいものとして認識され、より大きな真理に、その座を譲らなければならない。その時代の事実はのちに、より大きな事実の部分と みなされるようになる。
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人間は 不朽の知恵の いくつかの小さな原理を明瞭に把握し、それらの正しさを確信できるようになったため、より大きな全体を忘れて、…… そして、それが限定になり、彼を捉えて 彼の進歩を阻むものになる。 自分には真理があると 確信しているため、 他の真理を見ることができなくなるのである。
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真理かもしれないものについて自分自身で具体化した概念の真実性を確信できるため、自らの脳の限界を忘れ、…… 個人的な分離したマインドによって 形態へと形成されていることを忘れてしまう。その小さな真理のために生きるようになり、それ以外のものは見えなくなる。」
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◆ 初台 太郎
感謝する心にも通じていきますが、私たちの心と精神はぜいたくになってきて、真剣さや必死さに欠けるようすが頻繁に見受けられます。
腐食土の中の「菌類」(キノコなど)や泥の中の群生の蓮の「花」の自然と創造主の全体配置、そこに実はかなり象徴的なことがらがあるとみているのです。
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ふと(あの有名な詩の)「デクノボー」という宮沢賢治の手帳のメモ書きを思い出します。ろくでもない人間の私ですら違和感を感じるその「ナリタイ」とする一文は、世界の欲望の残り火を追いかけるような現代状況から、よけい分かりにくいものとなっているのかもしれません。「デクノボー」は役に立たないとする認識が一般だからです。
神様の創造の精妙なその配置に関連づける意識が、特にそこでは重要なものです。
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いまと未来(の心)に重ねていくべきことがらは、たくさんあるような気がしています。
宮沢賢治の小手帳に残されたシーソーパズルを埋めながら、かれの心の限界をたどることができるなら、かれの魂レベルで「デクノボー」の美しさも感じられるはずです。
心の美しさを売春婦に見た、ドストエフスキーの意識にもそれはつながるものです。それは限られた意識であるかもしれません。
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宇宙と自然界の借りものの、ほんの末端の創造の知識で気づき、原子爆弾を筆頭に、創造者でもないのに創造主のように、地上の王者のごとくただ他生命と自然をその欲望の餌食にしている姿は、秀でた宇宙知性からみるなら、きっと異常です。
キバだけ切られ捨てられ、紙幣に替えられる象の魂に命は、あらゆる創造の失敗の原因を、そこに見るのかもしれません。その点において企業自体はいったい、何様のつもりでしょう…。根っから原発に反対している人たちと話したくないと、経済界のトップは、被災から八年目に語っていました。単に個人の動揺を避けるがため…なのでしょう。
過去の恐竜と、人間の進化とは当然異なるものですが、恐竜はなんと大空を飛び回るように進化しました。はたして人間は、この精神をもち、この宇宙において、未来に滅亡したりせず、どう進化していけばよいのでしょう ?
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人は通常望んで病気になったり、望んで死んでいくわけではありません。でも、確実に病因があり例外もなく死んでいきます。望むと否と関わらず(気づきある)限界に追いつめられる、いわば、機会を得るのです。
追いつめられた意識が峻別の気迫のエネルギーを創り出します。ただ、宮沢賢治でなくても、宮沢賢治の状況と心はわかり、まったく同じでなくても、そこから見えているものを探ることはできます。
峻厳な追いつめられた各魂の発する真実を、万般の書物から泥を漉(こ)す蟹のごとく、人類は次の世代へ向けて真実を漉(こ)し、「ホメラレモセズ クニモサレズ」伝えていく必要があるということなのでしょう。
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