シャンタルアケルマンが映画史上初めて男性視点で構造化されてきた映画に女性からの視点描き初めて風穴を開けたと言われても、マヤデレンやデュラスはなんだったのか、ヴァルダはそうではなかったのかな、となるも、アケルマンも少ししか観てないのでなんとも分からないのだけれど、アケルマンやポッター、カンピオンに関心があるのはフェミニスト然としているわけでのそれではなく、男性では分からない部分描いているなと、とそこに関心があるわけなのだけれど、貴方はフェミニンねと時々言われたりすることあってもスケベだから描いているだけですと反発するのだけれど、数々のシナリオで女性を描いていても女性の実像が描かれていないなと顧みるも、男性だからしょうがないじゃない、女性の気持ちを代弁するとかだいそれておこがましい考えを捨て、これは俺の視点での創作物なのだ、女性であれ男性であれ、そのキャラにそのヒトのドキュメントが表現されればいいのだ、そうなのだ、バカボンのパパの気持ちになっているのだ、となる。
でもサリーポッター、御見それします。女性の不安(男性が計り知れないもの)、喜び、母性性、慈しみ、さすがに描いている。それも、よくあるような女性に描かれるような非理性なのではなく、秩序で描かれている。ラストに言う根無し草、ユダヤ人だけでなく、そこにいる登場人物すべて、拠り所なく生きるオーディエンス我々に言われるもの。無秩序をタンゴによって秩序をもたらす。レッスンの過程に生まれるものはこれなんだね。フレッド・フリスの奏でる音が女性がもつ不安、慶び、ピアソラらが奏でるタンゴに巻き込みながらも表す。『タンゴ・レッスン』よかった。
誤字あり誤文章あり。疲れたので修正そのうち。
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