mixiユーザー(id:25495303)

2016年01月28日22:22

470 view

死の街と化したマニラ〜GHQによる捏造放送真相箱より

櫻井よしこ先生の著書、真相箱の呪縛を解くより

◇戦争中のマニラの真相についてお話しください。
昭和20年、アメリカ政府は次のような公式声明を行いました。即ち、今やマニラは灰燼に帰している。嘗ての東洋の豪華都市を誇ったマニラも、今では全く死の町となっている。大部分の教会、修道院、大学は瓦礫の山と化し、爆撃と火災の犠牲となり、戦死者と惨死者の死体や、手足を切断された女、銃剣で刺し殺された赤子の死体がうずたかく積み上げられている。
かかる惨禍をもたらした命令は、直接東京から指示されたものである。日本人俘慮、軍担当者、比島人官吏並びに市民、日本側公文書より得た信ずべき報告により、次のごとき驚くべき事実が判明した。即ちマニラの破壊は最後の土壇場に追い込まれた守備隊による逆上した行動に基づくものではなく、日本軍最高司令部の周到なる計画により行われたものであるということである。
昭和19年12月の初め、比島傀儡政府大統領ラウエルは、マニラの非武装都市たることを宣言せんと努力したが、これは失敗に終わった、即ち山下(奉文)ともゆき大将は、これに対してある程度の約束を与え、その実現のためにある種の計画さえ立てたのであるが、その後彼が東京に出張して帰任するや、早速軍司令部と傀儡政府をバギオに移転し、その日以来マニラ壊滅のための防衛計画が進められたのである。
昭和20年2月に入るや、サント・トマス・キャンプの解放を皮切りとして、三週間のうちに、日本軍は教会、修道院並びにイントラムロス即ち旧「城内」の慈善施設に対し、組織的な焼却と破壊を開始したのである。かくて日本軍は、宗教上、歴史上の記念物の大部分を破壊し去ったのであった。
この犠牲となったものの中には、東洋における最も大なるカトリック大学であり、アメリカ勢力圏内の最古の大学であって、建築と歴史を誇る彼のサント・トマス大学もまた含まれている。
極東における最も美しい教会と称されたマニラ・カシドラルは僅かに外廓を止めており、大司教の邸宅、病院、修道院、学校、図書館は灰燼に帰した。イントラムロスをして、小さなローマの名をなさしめた文化的な記念物はかくて姿を没した。
イントラムロスの外部に於いても、日本軍は同様に情け容赦もなく、慈善姉妹会所属のスペイン時代の旧施設を破壊した。日本軍がルーベン、アシラム修道院を砲撃した時、そこには婦女子を主とする千人以上の避難民がいたのであった。またコンコルディア大学には、赤子、孤児、棄子、病人、サン・ホセ病院から移された狂人等、二千人以上の避難民がいた。こうした建築物のドアは、鎖で縛られていて、構内から何人も逃げ出さないために機銃を撃ち込み、しかるのちその建物を焼き払ったのである。


で、実際はどうだったのか?

水間政憲先生の著書によれば、

フィリピンは、1943年10月14日、日本軍政下で独立を果たしている。
米国は、ラウレル大統領を日本の傀儡としてこれを認めませんでした。
スペインと米国による400年に及ぶ植民地支配から独立し歓喜する民衆の様子が写真に残されている。
朝日新聞は、2015年2月の記事で、
「70年前の2月、マニラでは首都奪還を目指す米軍と抵抗する日本軍による激しい戦闘があり、フィリピン人10万人が死んだとされる」と記述し、日本軍がフィリピン人10万人を殺害したかのようにご誘導したのだ。朝日新聞は、現在もマニラを無差別爆撃した米軍を擁護している。


16 6

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する